アンティークジュエリー物語n.68
ルネサンスとフランスと
フランソワ1世

2mを超える巨漢、趣味はレスリング、イタリアに憧れてレオナルド・ダ・ヴィンチを囲い、その死に目で声をあげて泣いた男、それが〝 フランソワ1世 〟でした。
今回は、フランスの16世紀ルネサンスに生きた王様を辿ってまいります。

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フランソワ1世は、歴史上初めて国名「フラン(ス)」が名に入った、いかにもフランスらしい名前の王です。
しかし生まれは王太子ではなく、当時のフランス王ヴァロワ家の傍流アングレーム家出身で、1494年に香り高いブランデーで有名なコニャックで生まれました。
姉一人に続いた初めての男の子でしたので、母に〝 とても愛され、大切にされ、すくすくと 〟育ち、育ったのは2mを超えた身長だけではなく、自由奔放で人当たりの良い性格の、いわゆる愛されキャラに大きくなりました。

フランソワ1世 ルーヴル美術館蔵 _ フランソワのシンボル サラマンダー _ 騎馬像 コンデ美術館蔵

その性格はのちに戦争で捕虜になった時に役立ち、敵国スペインで1年近く監禁されたのにもかかわらず、敵兵と仲良くなったり殺されずに戻ってこれたのも、敵のカール5世がフランソワの可愛い性格に魅せられたからとか。
もちろん戦争ですから、難しい背景やカール5世の姉を2番目の妻として迎えた交換条件があったとしても、王同士が剣で戦っていた時代性を考えると、無事にフランスへ戻ったのは驚くべきことでした。
いずれの時代も、愛される性格 = 得することが多い、という例ですね。

フランソワ1世 クロード・ド・フランス アンティークジュエリー フランス 16世紀
若き日のフランソワと最初の妻クロード・ド・フランスと子供達

さて、王太子でないフランソワがどうして国王になったのでしょうか。
それは前王ルイ12世は王子がいなかったため、王位継承権をたどり、当たったのが従兄の息子フランソワだったからです。
1514年には、前王ルイ12世の娘クロード15歳とフランソワ16歳が結婚し、未来の王としてユマニストの教育を受けはじめ、20歳でフランス国王となりました。

余談ですが、フランソワ1世と1番目の妻クロード・ド・フランスの3男4女のうち、王女2人、赤いボネのシャルロットと白いボネのマドレーヌを拡大画像でご覧下さい。
ボネとは仏語で頭巾のことで、ぷくぷくした白い頰のマドレーヌが持つのは黄金と象牙のガラガラです、なんと贅沢なおもちゃでしょうか。
子供の持ち物一つとっても、ルネサンス時代の肖像画には、デザインや配色に面白さがあると思えます。

シャルロット・ド・フランス マドレーヌ・ド・フランス クルーエ画
シャルロット・ド・フランス 1524年_ マドレーヌ・ド・フランス 1522年 _ J.クルーエ画

歴史的にフランソワは〝 フランス・ルネサンスを代表する王 〟として、文化の発展に貢献し、今の芸術大国フランスの土台を作った芸術王と言われています。
それは、フランソワのイタリアへの愛と、強烈な収集癖が大きく関係しており、物だけでなく人も収集しました。
有名なのは、ミラノ公に囲われ、最後の晩餐を描いたレオナルド・ダ・ヴィンチを、ミラノ公が戦争で疲弊したすきに、自分の宮殿敷地にある城館を用意し、ここでゆっくりどうぞ、とフランスへ招待したことです。

レオナルド・ダ・ヴィンチ フランソワ1世 モナ=リザ アンティークジュエリー
モナ=リザ レオナルド・ダ・ヴィンチ画 ルーヴル美術館蔵_フォンテーヌブロー宮殿のフランソワ1世

例え権力者でも気の向かない注文には答えず、気難しさで有名だったダ・ヴィンチの足を向けさせたのも、大きいけれど愛される性格のフランソワならではだったと言えましょう。
至宝〝 モナ=リザ 〟もしかり、もともと数少ないダ・ヴィンチ作品の多くが、今フランスにあるのは、フランソワのコレクター魂のおかげだったのです。

16世紀のヨーロッパは、現ドイツやオーストリアを含むゲルマン圏とスペインを支配した神聖ローマ帝国皇帝カール5世、6人の妻を殺しては娶るを繰り返しローマ法王に絶縁状を突きつけたイングランドのヘンリー8世、そしてフランスのフランソワ1世、と超がつくほど個性的な御三家がそろった時代です。
縄張り争い、ローマ法王とのややこしい関係、戦争、そしてペストの流行と動乱の時代でもありました。しかし人と物が大きく動いたおかげで、イタリアで熟したルネサンス文化がヨーロッパ全体へ広がりました。

フランス フランソワ1世 16世紀 イングランド ヘンリー8世 神聖ローマ帝国皇帝カール5世 アンティークジュエリー
16世紀3人の王 カール5世神聖ローマ帝国 _フランソワ1世フランス_ヘンリー8世イングランド

フランソワは1515~1525年の10年をイタリア戦争に費やしています。
当時は王が先頭に立って戦争をしました。
フランソワは自分を「騎士王」と呼び、戦いながら、イタリアで見たルネサンス文化に魅了されます。
宮殿、街、人々の衣装、装飾品、食事…全てが豪華で美しく、美味しく、洗練されていて、フランスでは見たことのないようなものばかりで、〝 いろいろと持って帰るから、楽しみにしててね。 〟と王妃への手紙に書いたフランソワの行動は早く、1516年にはダ・ヴィンチをフランスへ連れ帰り、生涯フランスから離しませんでした。
たくさんの学者、建築家、芸術家、職人をフランスへ招待できたのは、先代からの豊かな資金があり、イタリアが戦争で疲弊したためで、まさにチャンスでもありました。
フランソワの行動が、結果的にフランス文化を成熟させましたが、戦争だけに明け暮れる王だったら、どうなっていたでしょうか?

フォンテンブロー宮殿 パリ南東

フランソワのイタリア好きは、息子アンリの妻にカトリーヌ・ド・メディシスを選んだことからも伺えます。
当時、富裕でも商人出のカトリーヌに、フランス側では身分が違いすぎると反対意見も多かったにも関わらず結婚はなされました。
今も残るフランソワの功績は、〝 レオナルド・ダ・ヴィンチの招待 〟〝 フォンテーヌブロー宮殿(ルネサンス彫刻と絵画のギャラリーがある) 〟〝 コレージュ・ロワイヤル設立(現在のコレージュ・ド・フランス 〜学術研究所) 〟〝 黄金の陣(1520年のヘンリー8世との会見) 〟があります。

フォンテンブロー宮殿 _ 階段 フランソワ1世のギャラリーより 彫刻とプリマチスの壁画

騎馬像では、騎士王やヘラクレスと呼ばれるのを好んだ巨体ゆえ、馬が小さく見えますが、イタリアルネサンスをフランスの粋に高め、色数を抑えたシックな装いやジュエリーを見ますと、図体は大きくとも繊細なフランソワの好みがわかります。
一般には、ヴェルサイユ宮殿のルイ15世や、革命に倒れたルイ16世といった「ルイ」達は有名ですが、もっと古いフランソワの時代は、個性が濃く面白い王が多いといえましょう。

フランソワ1世の甲冑 パリ軍事美術館蔵 _ 騎馬像 クルーエ画考察 ルーヴル美術館蔵

余談ですが、イタリアとフランスの美意識の違いは、作家「辻邦生」の、フィレンツェのルネサンス時代が舞台の小説「春の戴冠」に的を得た一文がありますのでご紹介致します。

時代は1400年代末、フィレンツェのメディチ家の文芸サロン「プラトン・アカデミー」へ現れたピコ・デラ・ミランドラについて、主人公の私は、

「・・・・・長身のピコは銀か金の刺繍のある、胸にぴったりついた白の胴着に、同じ模様の刺繍で飾った、膝の上まで丸く膨らんだズボンを着けていた。足には当時流行していた仏国(フランチア)風の白か灰色の長靴下を穿いていた。そして大抵は、腰までの、銀の花模様の細かい刺繍のついた青いマントを羽織っていた・・・・・それはフィオレンツァ(=フィレンツェ)の青年たちの派手な、青や赤や黒などの色彩をめまぐるしく用いた衣装に較べると、ずっと地味で異国風な感じがしたが、なんとも言えぬ好ましい軽やかな趣味が感じられ、かえってフィオレンツァの流行のほうが厚ぼったく、田舎じみて見えるのだった。私はいつかそのことをピコに言うと、彼は、これは全く仏国(フランチア)趣味で、ミラノやフェラーラあたりではこうした単純な、さっぱりとした繊細さが好まれているので、自分はただそれに従っているだけだ、といった・・・・・・」

下の2つの画では、左のイタリアと右フランスの、好みの違いがわかります。

東方三博士 ゴッゾーリ画 フィレンツェ メディシス館蔵 1459年 _ シャルル9世 1561年 クールエ画 ウィーン美術館蔵

さて、小説に出てくるピコ・デラ・ミランドラは実在の人物で、1463年生まれ、北イタリアの領主ミランドラ家の末息子です。ボローニャ大学、パドバ大学で学び、ギリシャ古典哲学、文学を研究し、カバラ神秘学に通じ、独自の世界観を作り、フィレンツェのメディチ家の「プラトン・アカデミー」と交流し、ギリシャ語とプラトンを学び、1485年にはパリ大学を訪問し刺激を受けて作った演説が「人間の尊厳について」でした。31歳で逝去し、現在もミランドラの地には城跡が残っています。

ディアーヌ・ド・ポワティエ F.クルーエ画 ヴェルサイユ宮殿トリアノン蔵
ディアーヌ・ド・ポワティエ F.クルーエ画 ヴェルサイユ宮殿トリアノン蔵

作家の辻邦生の一文から、ヨーロッパ文化の中心が15世紀末から16世紀にかけて、イタリアからフランスへ移っていった様子が見え、そこにフランソワ1世が生きていました。

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さて、まだまだたくさんの逸話がある個性的な王様ですが、長くなりましたので、このあたりでおしまいに致します。
最後に、上の女性は〝 ディアーヌ・ド・ポワティエ 〟フランソワ1世と息子のアンリ2世の親子2代の恋人で、300年を超えて芸術家にインスピレーションを与えた16世紀の絶世の美女でした。
ディアーヌのことは、また他の機会にご紹介したいと思います。

▷ n.67 マテリアルの手帖 真珠

◁ n.68  写真家マン・レイのジュエリー レッスン

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