アンティークジュエリー物語n.29
狩りの館から宮殿へ
ヴェルサイユ宮殿 I

フランスで最も有名なところの一つに、ヴェルサイユ宮があります。

日本でも知らない人はいないと言って良いくらいですし、世界中から人々が観光に訪れます。現在は国の歴史建造物、そして世界遺産として保存されているこの宮殿は、いったいどのようにして今に至ったのでしょうか。


ここでは、フランスの文化が最も花開き、ヨーロッパ宮廷へ影響を与えた時代を作った宮殿のエピソードをご紹介致します。
” ヴェルサイユ宮 ” はフランスの北、パリから南西へ約20kmにあります。
はじまりは17世紀初め、ルイ13世王が ” 狩猟の館 ” を建てたことからでした。

ヴェルサイユという場所は、パリから近く豊かな森に囲まれ、王にとっては狩猟にはもってこいの土地でした。
最初は煉瓦の慎ましい作りでしたが、王が度々立ち寄ったことから、大きな石作りの館に変わっていきました。
今の宮殿の見事なフランス庭園も、この豊かな森を土台があったからこそ出来上がりました。


そして17世紀中ごろ、太陽王ルイ14世王の時代になります。
若きルイ14世は、自らを愛と戦争、芸術の神として、文化面に莫大な資産をつぎこみました。

贅を尽くした派手な祭典を催し、全てのフランス芸術が集まる場所としました。
この時が、もう狩りの館ではなく、芸術の宮殿としてのヴェルサイユ宮が始まりでした。


王は著名な造園家 ” アンドレ・ル・ノートル ” に庭園を、建築を ” ジュール=アルドゥアン・マンサール ” と ” シャルル・ルブラン ” へ、17世紀バロック美術の粋を集めた宮殿をつくるよう命じました。

ルイ14世の政治的な能力は、先代のアンリ4世、ルイ13世に比べると劣っていましたが、フランスの芸術面を成熟させた王でした。
文化は世の中が落ち着いてこそ熟していくもの、と言われます。
政治的な成功と、文化的な面の両方を成功させることは大変難しいのでしょう。

ルイ14世 24.~25歳の時 1662~63年頃 ヴェルサイユ宮所蔵 / 宮殿の扉

さて、絶対王政を敷いたルイ14世は、宮廷での規則を作り、貴族達を従わせます。
実は彼は10歳の時に、クーデターで貴族に殺されそうになったことがありました。
それをいつも心において、服従の制度を作ったのです。
理由はともかく、大名を従わせ日本を統一した徳川将軍家の方法と似ていますが、時代も江戸時代の始まりは1603年から、とほぼ同じ時代ですね。

さて、ヴェルサイユ宮で最も美しいと言われる「 鏡の回廊 」は、1670年にルイ14世が回廊を作らせ、外国大使達にはここで会い、フランスの豪奢を知らしめました。
大使達は国へ戻り、いかにヴェルサイユが素晴らしかったかを語ります。
そしてその国の王族自らがヴェルサイユを訪れました。
このようにして、ヨーロッパ王侯貴族達は、フランスをヨーロッパの中心と見なしていったのです。

今でもヨーロッパ各国に残る ” ヴェルサイユ風 “ や ” プチ・ヴェルサイユ ” といった宮殿や城が多いことからも、そのはかりしれない影響力が見て取れます。


この回廊は長さ73m、天井はシャルル・ルブランの王の偉業を神話にした絵画で埋め尽くしています。
回廊の壁に張った鏡は357枚、当時、鏡は非常に高価なもので、王侯貴族でも最高の地位にいるものしか、求める事ができないくらいでした。

鏡をたくみに使い、より広く大きく光で輝くように作られました。
今でもフランス大統領は、この回廊で外国からの公式の客人を迎えます、まるで王のように。宮廷ではルールに従う貴族達が集まり、王への崇拝を沢山の贈り物と祝宴で示しました。


ここでは、宮廷内での細かい服装のルールに食事のマナー、それぞれの貴族階級の坐る順番や挨拶などのエチケット、に従うことは最も大切でした。
王のお気に入りとなり、立身出世の近道でもあったのです。
現在のエチケットとして残る多くは、この時代の宮廷でのルールが基礎になっています。

1662年 古代の皇帝に扮したルイ14世 皇太子誕生の祝宴にて

そしてフランス宮廷をまねた、ロシア、イギリス、ドイツ、イタリア、スペインと全ヨーロッパの宮廷の基礎にもなっています。
例えば、当時のロシアやイギリスでは宮廷の公用語はフランス語でしたし、文書もそうでした。
最先端のフランスモードは絵画によって各国へ運ばれ、貴婦人達が真似をしました。

また、王は民衆を味方につけました。
庭園は年中公開され、だれでも中で美しい花々を楽しみましたし、素晴らしい花火大会の祝宴を開き、民衆を喜ばせました。
おかげで王は大人気、貴族を従え民衆の心をつかんだのです。

” 噴水の祭典 ” 1864年ナポレオン3世時代に18世紀のルイ14世の祝宴を模して行われた。

この時、120年後に民衆から革命が起こり、王の首が切られることなど想像もできませんでした。
ただ、先にお話したように、政治的には脆弱で贅を尽くしたために、革命への道は、すでにこの時から始まっていたと言えます。

今やフランスだけでなく、ヨーロッパの中心のような勢いであったヴェルサイユ宮は、ここでは工芸も花開きます。
16世紀までのイタリアの技術をフランスへ持ち込み、それを習った芸術家や職人たちは技術を磨き、フランス芸術を作り上げました。
その中心にいたのがルイ15世の愛妾でロココ芸術の華、” マダム・ポンパドゥール ”

戦争の間で撮影された1952年クリスチャン・ディオールのオートクチュールドレス / マダム・ポンパドゥール 1756年 ブーシェ画

絵画や彫刻、レース、絹地、家具、ガラス、セーヴル磁器と、あらゆるフランス工芸文化に惜しみないアイデアと、天井知らずのオーダーを続け、工芸の技術と質を高めました。
また、その美貌と頭の良さでヨーロッパ宮廷のファッションリーダーでもあり、「 ア・ラ・ポンパドゥール 」、ポンパドゥール風、といったドレスや髪型を流行させました。


王の財力でパリにも数多くの邸宅を建て、現在のフランス大統領官邸の一部も、かつてはマダム・ポンパドゥールの邸宅であったところです。

逸話のひとつとして、フランスの半円形のシャンパン・クープの形とサイズは、マダム・ポンパドゥールの乳房の形を石膏で取り、それを元に作ったものを正統としています。
彼女は美しい乳房に見惚れたルイ15世のために、自らの乳房のサイズのグラスをガラス職人に作らせたのです。

庭園にはマダム・ポンパドゥールが好んだ世界中から取り寄せた花々が咲き、18世紀は” 花の世紀 ” とも呼ばれています。
また、当時の男性は女性よりもより華やかに装っています。


豪奢な宮殿と美しい庭園が魅力のヴェルサイユ宮、しかしそれだけではありません。
当時さかんであった航海術や、自然科学を研究する場所でもありました。
ルイ15世は、ヨーロッパ中から学者を呼び寄せ、豊富な場所と資金を与え、ふんだんに研究をさせ、フランスの科学や医学の分野を発達させたのです。


このような惜しみない投資が、当時のヨーロッパ文化の中心と言われる由縁です。
17世紀から18世紀へ、フランスの最も豪奢な時代が続きます。
次のコラムn.30へ、ヴェルサイユ宮殿のお話が続きます。

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