ヨーロッパの歴史と国・時代と文化

ルーヴルアンティークでお取り扱いをしているアンティークジュエリーとオブジェにまつわるフランスとイギリス、その他主要な「ヨーロッパの歴史と国・時代」「文化」についてご案内をしています。
アンティークジュエリーとオブジェをもっと詳しく知るために、このページ最下方もご覧下さい。

ヨーロッパの歴史と国・時代と文化 アンティークジュエリー

フランスの歴史

◯ 古代_ヨーロッパ_大陸_コンチネンタル
ケルト文化_ゲルマン民族_ガリア

現在、ヨーロッパの青銅器時代と言われる紀元前1500年頃から、ケルト系と呼ぶ騎馬民族がアルプスから北のヨーロッパへ広がり、紀元前1200年頃から紀元前500年にかけて文明を作った。当時は地中海世界のギリシャやエトルリアが最も文明が発達していたところであったが、ケルト系民族も独自の文明を作り上げていた。また、当時のケルトの遺跡からは、ギリシャから輸入した青銅器や陶器、黄金の装飾品が発掘されており、ケルト系民族は、地中海世界と交易でコミニュケーションを取りながら、ギリシャから大きな影響を受けていたことがわかっている。信仰はドルイド教で、礼拝の石に刻む文字や交易には、ギリシャとラテン文字から変型させた独自の文字を使っていたが、ごく稀にしか使わず、一般には文字を持たない民族である。
ケルト系文明は紀元前1世紀頃まで続いたが、以前から古代ローマ帝国が支配しはじめたことと、ゲルマン人が東から移動し圧迫してきたため、ケルト系民族は現在のフランスの西やスペインへ移動し、少しづつ他民族と混ざり合った。
紀元前1世紀には、古代ローマ帝国がほぼ全域を支配し、ローマの人々は、この地を「ガリア」、ケルト系民族を「ガリア人」と呼んだ。

美術では、最も古い頃のケルト系の発掘品に、騎馬民族ならではの戦車や馬の形の鉄器があり、ギリシャやエトルリアとの交易から得た、または見よう見まねで作ったと考えられるギリシャ様式の黄金細工のジュエリーがある。それは、縄編み状のブレスレット、イヤリング、ネックレス、琥珀をグラデーションで何連も連ねたネックレスである。紀元前6世紀頃には、ブロンズ製の200kgもある彫金細工のワイン壺、エトルリアの細かい黄金細工そのもののような、先がライオンの足で、真ん中にペガサスの飾りがついているバングル、古代ギリシャの黒とテラコッタ色の絵付壺も見つかっている。
紀元前5世紀から1世紀には、独自の美術様式が強まっていく。例えば、輸入した古代ギリシャやエトルリアの文様を、ケルト風に変化させており、この時期に有名な「S字の中に細かい動植物文様を繰り返したケルト文様」が作られた。(19世紀にはブリテン諸島でケルト文化再興があり、文様を彫金した「ペナニュラー・ブローチ」を復刻している。)ジュエリーでは黄金にそのケルト文様を彫金し、ギリシャの図柄をデフォルメしたようなデザインが主流になった。このようにしてギリシャの影響をたくさん受けながら、ケルト系独自の美術様式を作っていたのである。
ケルト系文化は、ローマ帝国支配の後にはラテン語を使い、ゲルマン人と交わり、ローマ的に変わっていき衰退した。
なお、現在のアイルランド、スコットランド、ウェールズ地方は「島のケルト」と呼ばれ、ヨーロッパ大陸のケルト系とは関連性が薄いとも考えられており、目下研究中である。

◯ 古代ローマ帝国属州時代_ガロ・ロマン_ルテティア
ルテシア_リュテス_パリシー_ゲルマン民族大移動

紀元前1世紀から400年代末頃までを「ガロ・ロマン」文化という。
紀元前1世紀には、古代ローマ帝国は現在のフランス、スペイン、ポルトガル、イタリア、西ドイツの一部、イングランド、北アフリカ、アラビア半島、バルカン半島一帯を属州とした。
西ヨーロッパ、特にフランス近辺から北イタリアをシーザー(カエサル)は「ガリア」と呼び、現在のパリ、リヨンなどにはローマの影響を受けた街が少しづつ作られ、当時のパリは「ルテティア」という名で呼ばれていた。「ガロ・ロマン」の「ガロ」は「ガリア」、「ロマン」は「ローマ化」のことで「ローマ化したガリア」の地と文明をさす。ガリアの美術様式は、以前のケルト系様式からローマ化し、円型競技場、ローマ風舗装道路、公衆浴場、劇場や水道橋といった古代ローマの建築を作り、彫刻美術を取り入れただけでなく、食べ物や宗教(キリスト教が広まる)といった人々の生活がローマ的になっていく。現在のパリには、クリュニー公衆浴場跡、紀元前1世紀の円型闘技場のアレーヌ・ド・リュテス、初期キリスト教地下聖堂といった当時の遺跡がある。
395年にローマ帝国が西ローマ帝国と東ローマ帝国(後のビザンティン帝国)に別れた後も、西ヨーロッパは西ローマ帝国の支配下にあったが、500年代末頃にゲルマン民族が侵入し西ローマ帝国は滅亡、その後の西ヨーロッパはゲルマン民族の支配下になる。
ゲルマン民族は、熟した美しいローマ文化に触れて感嘆し、破壊せずに、建築、美術、生活様式、宗教をそのまま丸ごと取り入れ、現在のヨーロッパの土台を作ったのである。

◯ メロヴィング王朝_フランク王国_フランス
5世紀末頃にガリア(ヨーロッパ)へ移動したゲルマン民族が作り、のちのフランスとなった国。481年にクロヴィス王がメロヴィング王朝をはじめた。
ローマのカトリック教会と関係が深く、クロヴィス王はキリスト教に改宗し、後世のフランス・カトリックの基礎を作る。クロヴィス王のあとは、子孫が3つの国に分け統治したが、内乱が続いて国は混乱していた。

◯ カロリング王朝_フランク王国_フランス
混乱した国々の中の一つ「アウストラシア」の宮廷官僚だったカロリング家が、7世紀前半にフランク王国の再統一を目指して戦い、751年にカロリング王朝を開き、ローマ・カトリック教会の後ろ盾となってヨーロッパ大陸で力のある国づくりを進めた。
768年にはシャルルマーニュ(カール1世)大帝が登場し、ローマ教皇から「神聖ローマ帝国皇帝」の冠を頂き、現在のフランス、オランダ、ベルギー、ドイツ、北イタリア全域を支配した。農業を主軸にし、領主と農奴の主従関係による封建社会の始まりである。
この時代の文化は「カロリング・ルネサンス」と言われ、公式の言葉をラテン語に統一し、古代ローマやビザンティン(古代ギリシャ的美術)の建築、美術を取り入れ、聖書の解釈や翻訳を行い、写本や細密画などの文化、美術を作った。また、ラテン語のためにはカロリング小文字体が作られている。しかしラテン語は上の階級の人々だけが使い、下層階級の農奴たちはゲルマン俗語を使っており、読み書きはもちろんできなかった。
美術では、キリスト教の絵彩色とカロリング小文字体で綴った見事な絵入り写本があり、ギリシャやローマ文化から取り入れた黄金細工や宝石をはめ込んだ彫像、モザイクのように宝石をセットした装飾品や象牙レリーフ、丸彫りが見られる。彫刻は写本の表紙や、聖堂のためのオブジェになっている。他には聖堂のフレスコ画、モザイクも見られる。

◯ カペー王朝_フランス_中世
987年〜1328年 フランス王国の始まり
ユーグ・カペー_ロベール2世_アンリ1世_フィリップ1世_ルイ6世_ルイ7世_フィリップ2世_ルイ8世_ルイ9世_フィリップ3世_フィリップ4世_ルイ10世_ジャン1世_フィリップ5世_シャルル4世

987年にカロリング王朝が断絶した後、有力な諸侯がパリ伯ユーグ・カペーをフランス王として選びカペー王朝を開く。1100年代までには国をまとめ1200年代に花開いた。十字軍、領主と農奴という封建社会から王を中心にした中央集権国家へ変わる時代であった。カペー王朝のはじめの頃は、フランス各地の領主が大きな領土を持ち、王と同じくらいに力があったが、イングランドのプランタジネット王朝との戦争や王の政略によって弱体化した。イングランドの「プランタジネット王朝」とは、フランス領主アンジュー伯アンリの母マチルダが、イングランド・ノルマン王朝最後の王ヘンリ1世の娘であったので、フランス領主なのにイングランド王権を主張し、戦い勝った結果、イングランド王ヘンリ2世(仏名アンリ)として1154年に始めたイングランドの王朝である。ヘンリ2世はフランスの領主でイングランドの王というダブルの権力をもち、その大きさは、母から受け継いだフランス北のノルマンディーと、父から受け継いだフランス南西部アキテーヌの広大な領土+イングランドであった。カペー王朝フランス王としては非常に煙たい存在で、フランス側の領土を奪い返すために戦い、イングランド王ヘンリ2世の息子ジョン王の失策もあり、1200年代初めには多くの領土がフランス王のものとなった。この戦いのおかげでフランス領主が弱体化し、王権が強まった。余談であるが「プランタジネット」とは、フランス領主アンジュー伯の家紋の「エニシダ 〜ラテン語でプランタ=ゲニスタ」から後世につけられた王朝名である。
くわえて長寿で男子に恵まれた王たちは、法律や経済の専門家を周囲において政治の発展に尽くし、戦争ではなく結婚や領地交換によって他の領主との繋がりをつけ、平和的にカペー王朝の勢力を強め国を収めていった。またパリを拠点にし、1200年代にはパリ大学、ノートルダム大聖堂を創立し、パリを首都とし始めた時代である。
美術では、「ロマネスク」(※アンティークジュエリー辞典の「中世様式」の項参照)の時代で、またフランス王家が「百合の紋章 〜アンティークジュエリー物語 n.7 百合の伝説 フルール・ド・リス I へ」を使い始める。
1328年にカペー王朝は終わり、次にカペー家の親戚であったヴァロワ家からフィリップ6世がヴァロワ王朝を始めた。家名によって王朝名は変わったが、フランス王家はこの後もカペーの血縁がブルボンへつながっており、19世紀の王政復古時代の王たちもカペー家の血筋で、現在もスペイン・ブルボン王家にカペー家の血筋が続いている。

◯ ヴァロワ王朝_フランス_中世_ルネサンス
1328年〜1589年 フランス王国のカペー王朝に続く、中世から近世にかけての王朝
フィリップ6世_ジャン2世_シャルル5世_シャルル6世_シャルル7世_ルイ11世_シャルル8世_ヴァロワ=オルレアン家ルイ12世_ヴァロワ=アングレーム家フランソワ1世_アンリ2世_フランソワ2世_シャルル9世_アンリ3世

カペー王朝最後の国王の孫でヴァロワ伯のフィリップ6世が諸侯に選ばれて即位し始まった。1337年から始まったイングランドとの百年戦争では大変であったが、シャルル7世は、ジャンヌ・ダルクをきっかけに勝利した後、より王権を強くし、1500年代のフランソワ1世の時代にはフランス・ルネサンスが花開いた。イングランドとの「百年戦争」とは、フィリップ6世が即位した時に、イングランド王エドワード3世も母方(母がフランス王フィリップ4世の娘イザベラ)でカペー家の血縁であったのでフランスの王権と領土を要求したことから始まり、1339年から断続的に1453年まで続いた戦い。これは国同士の国民による戦争ではなく、領主の戦いであり、そのためフランス国内の領主が弱体化し、返って王権が強まり、フランスの中央集権国家がより強固になったと言える。
ヴァロワ王朝で最も有名な王フランソワ1世(1515-1547)は、20歳で王となり、2m近くの長身で体格に優れ、騎馬、レスリングとスポーツ万能であった上、神聖ローマ帝国シャルル=カン(カール)5世皇帝やイングランドのヘンリー8世と切磋琢磨しながら、芸術に心を注ぎ、レオナルド・ダ・ヴィンチをフランスに招きアンボワーズ城領内のクルーの館と年金を死の時まで与えた。王はレオナルドの死後、「今までこの世界にレオナルドほど素晴らしい人物がいただろうか。絵画、彫刻、建築に秀でただけでなく、非常に傑出した哲学者でもあった。」と偲んだと伝えられている。またイタリアから多くの建築家、画家、彫刻家、装飾家を呼び寄せ、ルネサンス美術のもととなったギリシャ古典学者を保護する「コレージュ・ロワイヤル(後のコレージュ・ド・フランス)」を設立し、フランスの文化芸術を豊かにした。当時のルネサンス建築には、フォンテンヌブロー宮殿がある。次男のアンリ2世の王妃がカトリーヌ・ド・メディシスである。カトリーヌ・ド・メディシスの時代には宮廷の権力闘争や宗教紛争により、最後の王アンリ3世が暗殺され、ヴァロワ王朝から、カトリーヌ・ド・メディシスの娘マルゴ王女と結婚していたナヴァール伯アンリがアンリ4世となってブルボン王朝を開いた。アンリ4世の母はフランソワ1世の姪であり、他にもカペー家と血縁関係があり、引き続きカペー王朝の血縁がフランス王となっている。

◯ ブルボン王朝_フランス_16-18世紀
1589年〜1792年 ヴァロワ王朝ののちフランス革命までの王朝
アンリ4世アンリ・ド・ナヴァール_ルイ13世_ルイ14世太陽王(マザラン枢機卿)_ルイ15世(リシュリュー枢機卿)_ポンパドゥール伯爵夫人_ルイ16世_マリーアントワネット王妃

1589~1792年 ブルボン王朝をはじめたブルボン家は13世紀にさかのぼる。最初、カペー王朝ルイ9世の孫ルイが初代のブルボン公となり、傍系のアントワーヌがナヴァール王となり、その子アンリがヴァロワ家の王女マルゴと結婚し、王位を継承しアンリ4世としてブルボン王朝を始めた。アンリ4世はマルゴとは離婚後、メディチ家のマリー・ド・メディシスと再婚し、ルイ13世が生まれブルボン王朝安泰となった。父アンリ4世の暗殺で、ルイ13世は8歳半で王となる。はじめは母マリー・ド・メディシスが、続いてリシュリュー枢機卿が宰相となって政治を動かし、ルイ13世とリシュリューは半年違いで亡くなった。

1643年にルイ13世の息子ルイ14世は4歳で王となる。
はじめは母アンヌ・ドートリッシュが摂政し、その後マザラン枢機卿が政治にあたり、23歳からは実権をもち、計50年にわたり「太陽王」としてフランスをヨーロッパ一の富と力、文化の国に仕上げた。ルイ14世のもと、財務総監コルベールは交易で財政を立て直し、国内産業を保護して王立工房設立や資金貸しを行い産業を栄えるようにした。「王立科学アカデミー」「王立芸術アカデミー」を設立し、建築、絵画、彫刻、文学などの文化事業を国をあげての発展に尽くす。またコルベールの政策によって工房、職人、技術が豊かになり、この時期に全ての美意識と技術を注いだ代表がヴェルサイユ宮殿である。この宮殿はヨーロッパ王侯の憧れの的となり、各国に似た宮殿が建てられている。このようにルネサンス文化から引き継いだフランスの古典様式の建築が、文学、音楽、装飾芸術とともにヨーロッパへ広がった。

あとを継いだのはルイ14世の曽孫ルイ15世で、1715年に5歳で王となる。
はじめはオルレアン公フィリップが摂政をし、13歳から実権を持ち、ブルボン公ルイ・アンリ、次にフルーリー枢機卿が摂政をしている。曽祖父ルイ14世の富と力、有能なフルーリー枢機卿のおかげで平和で、ルイ15世の寵妾で宮廷の花ポンパドゥール伯爵夫人が中心になり、文学、哲学、美術、音楽を愛し、学者や芸術家を招いた学芸サロンを開き、セーヴル工房やリヨン絹織物工房を保護し、ロココ美術が花開いた。しかしヨーロッパ他国の戦争やアメリカとインドの植民地を失い、戦争の出費で晩年には少しづつ財政が傾いていく。また、ヴォルテール、ルソーなどの啓蒙思想があらわれ、革命に向かう芽が吹き出してくる。

1774年にルイ15世の孫のルイ16世が20歳で王となる。
祖父の時代からの戦争ですでに財政が大きく傾いており、最初の仕事は財政再建であった。政治をかえりみなかったと伝えられていたルイ16世であったが、それは後の時代の王政反対派による悪口で、実際には2m近い美丈夫で、実は頭脳明晰、啓蒙主義にも通じ、有能な人を取り上げ財政に当たらせ、すでに革命の勃発を感じていた王は、絶対王政ではなく民のための王政を目指していたことが現在わかっている。しかし、傾きすぎた財政は戻らなかった上、1775年にアメリカ独立革命が起き、フランスもそれに参戦し、上塗りしたように深刻な財政難になってしまう。
文化的には古典様式の時代である。(アンティークジュエリー辞典 古典様式_クラシック_古典主義の項を参照)

1789年5月、財政難をなんとかしようと新たな税を考えたが、平民と一部の貴族が国民議会を宣言し、パリ市民が蜂起しフランス革命が起きる。1791年6月には国内が静まるまでパリを離れようとした王一家であったが途中で捉えられ、1792年に退位し、1793年にマリー・アントワネット王妃とともにギロチンにかけられた。ルイ16世は、立憲君主制を理解し認め、革命派には穏健に国を治める考えの人々もいたが、激しく怒りを表す過激派によって、王であること自体が悪であるとされ処刑の道へ進んで行った。
フランス革命の他の国への飛び火と、フランス革命政府がヨーロッパを侵食し大国になることを恐れたイギリス、スペイン、オーストリア、プロイセン、ポルトガル、サルディニア、ロシア各国は、対フランスの同盟国を作ったが、1797年のナポレオンによって分解した。
ルイ16世で一旦閉じたブルボン王朝であるが、ナポレオン1世皇帝ののち、1814年に王政復古し、ルイ16世の弟ルイ18世、1824年に同じ弟のシャルル10世によりブルボン王朝が復活し、続いてオルレアンのルイ・フィリップ王が即位し王朝文化を作った。

◯ フランス革命_1789年
ブルボン絶対王政を倒した革命 バスティーユ牢獄襲撃から1799年ナポレオンの登場まで
立憲君主制_封建的特権廃止_人権宣言_王政廃止_憲法制定_共和政_総裁政府

◯ ナポレオン統領政府時代_フランス
1799年12月24日「革命暦第8年憲法」の布告、フランス革命の終結を宣言
1799年 ナポレオン第一統領となる。
フランス銀行の設立、通貨の発行、教育の統一、ローマ教皇との和解(コンコルダート)を実現しつつ信教の自由を継承し、経済と社会へ安定を与えた。
1804年3月発布のナポレオン法典は、ナポレオン自身が主に編纂し、法の下の平等、信仰や労働の自由、私的所有権の絶対と契約の自由といった、フランス革命の成果を固定させる世界で初めての民法典を作り、現在も民法の源泉となっている先進性のある法典であった。

◯ ナポレオン1世皇帝時代_第一帝政時代_ジョゼフィーヌ皇后_フランス
ナポレオン1世皇帝とは、1804年5月から1815年在位のフランス皇帝である。
ナポレオン・ボナパルトは1769年コルシカ島生まれのフランス貴族で、軍人となった後に数々の遠征で名声を高め、フランス革命後のパリで第一統領となり、フランス革命を終わらせる。その後1804年には国民投票で承認されたナポレオン1世皇帝として即位をし、英雄としてヨーロッパ大陸を統一するほどに君臨した。即位と同時にナポレオン自らが法の下の平等や自由を編纂した民法典「ナポレオン法典」を発布し、今もその原理はフランスの法律に生きている。1800年前後の時点では他国に先駆けた現代的な法典であり、天才的な指導力と人望を得たナポレオンの才能を示している。しかしロシア遠征から失脚し1815年に帝政が終わり、1821年にはセントヘレナ島で逝去した。
フランス革命の自由平等を実現する皇帝として人々の希望となり、ベートーベンが「英雄」を作曲したことが知られている。ナポレオン1世は自らを古代ローマ皇帝と位置づけ、この帝政時代に宮殿は古代のスタイルで整えられる。皇后ジョゼフィーヌは非常に贅沢な人物で当時のファッションリーダーで、ジュエリーやドレスなどの装いや室内装飾の趣味に秀でていた。古代ローマの白い布を巻きつけるトーガと呼ぶ装いや月桂樹の冠、、宮廷の古代彫刻、カメオ、インタリオのコレクション、古代ローマ時代の建築物や装飾品にインスピレーションを受けた様式が流行し、ルイ16世王時代からの、端正な美しさの新古典様式を踏襲した帝政時代様式が確立している。

◯ フランス王政復古時代_19世紀前期_シャルル10世王_ルイ18世_ルイ・フィリップ王
1814年のナポレオン1世皇帝の失脚後、1830年まで続いたブルボン王朝による立憲君主制。
まずルイ18世が復位した。ルイ18世は18世紀前期のルイ15世の孫で、兄はルイ16世、1755年にヴェルサイユ宮殿で誕生する。逝去後の1824年に弟のシャルル10世が続いた。シャルル10世王はマリーアントワネットとも仲良く、もっとも王らしい王と言われる。
1830年までの王政期には、18世紀のブルボン王朝様式やマリーアントワネット好み、中世、ルネサンス時代様式が復活し、ネオ・ゴシック、ネオ・ルネサンスといった工芸美術が流行する。1830年にはオルレアン王朝のルイ・フィリップ王が即位し1848年まで在位した。
一般には、1814-1848年を「フランス王政復古時代」と呼ぶ。

◯ ナポレオン3世皇帝時代_19世紀中期_第二帝政時代_ウージェニー皇后_フランス
フランスの1852年〜1870年まで続いた第二帝政時代。1848年にナポレオン・ボナパルト(ナポレオン1世皇帝)の甥であるルイ・ナポレオンがフランス第二共和制の大統領となり、1851年に政権を掌握し1852年にナポレオン3世皇帝となった。皇后はスペイン貴族のウージェニーである。
自由帝政のもとで商業や金融、文化の発展に力を注ぎ、産業革命によりフランスの経済発展に大きな効果をあげ、イギリスとも協調しフランスの国際的地位を高めるなど、政治的敏腕の持ち主であった。鉄道の整備やオスマンの指揮のパリ改造計画により、中世の建造物からオスマン建築へ変化させ、道路に水を流す街路清掃システムやガス灯の整備、オペラ座、コンコルド広場といった現在のパリの姿が作られた。ウージェニー皇后の18世紀宮廷貴族好みから、ブルボン王朝の豪華な装飾品が様式として作られ、歴史主義、古代主義、ルネサンス時代様式など、古来にインスピレーションを受けたジュエリーが作られる。19世紀以降、宝飾技術が発展し、さまざまなテクニックを使った精緻なジュエリーが作られ始めたが、ナポレオン3世皇帝時代は産業革命により道具や精密機器の創作とともにより高度となった。普仏戦争による疲弊でフランス第三共和制へ移り、皇帝時代は終わりを迎える。現在、フランス繁栄の基礎を築いた時代として評価されている。

◯ ベルエポック期_19世紀末-20世紀初期_フランス
ベルエポックとは、フランス語で「美しき良き時代」の意味で、19世紀末から1910年代のパリを中心に花開いた文化芸術の時代を指す。
19世紀中頃のナポレオン3世皇帝時代から発展した産業革命によって、経済が隆盛し、パリへは世界中から富豪が集まった。その注文に答えるように芸術家、建築家、宝飾家、作家、研究者などが各分野で活躍の場を与えられ、都市文化が栄えるようになった時代。
1914年に第一次世界大戦が始まると沈静するが、その後の1920年代には復活し「レ・ザネ・フォル」狂乱の時代と言われるモダンな時代が始まり、「アール・デコ」スタイルに変化していく。

◯ 20世紀前半
1920_1930_1940
1871年にナポレオン3世皇帝時代が終わったフランスは、めまぐるしい変化が起こる。はじめは君主制を続ける意見が多かったが、19世紀のブルボン王朝復古時代のシャルル10世王の孫アンリ・ダルトワが1883年に逝去したため、王政復古は消え、政治的には共和政へと移る。
ナポレオン3世時代の産業革命と工業、商業の繁栄の遺産を引き継いだ好景気で、1900年のパリ万博と中産階級が経済を支え、成熟した文化を作り、19世紀末から1910年代中頃まで「ベル・エポック」と呼ぶ華やかな時代となる。世界中から富豪や王侯貴族の末裔やアーティストが集まり、パリはインターナショナルシティとして、芸術の都と呼ばれるようになった。また19世紀中頃からの近代文明によって科学技術、医学、工学に大きな発展があった。ヨーロッパ中から集まった多くの企業家や研究者が産業を作り、ピエールとマリー・キュリー夫妻の放射線研究によるノーベル賞受賞、パスツールによる微生物菌の研究による1895年のレーウェンフックメダル受賞、そしてパリのパスツール研究所の創設など、学者の発見や発明があり、学問でも世界的な貢献をした。
1914年には第一次世界大戦があり、国民の多くを失う悲惨な戦争期間となったがドイツに勝ち、戦後復興で1918~1939年は大変華やかなインターナショナル時代となり、美術では「アール・デコ様式」が始まり、1930年代に熟した。
1939年にドイツのヒトラーがポーランドに侵攻し、イギリスとフランスが戦争を開始した。

◯ 20世紀後半_モダン_モダニティ
1950_1960_1970
1944年8月に連合軍によるパリ解放後、第二次世界大戦による国の破壊で疲弊したが、1950年代にはシャルル・ド・ゴールが国を立て直しにあたり、大統領制、内閣、議会制の共和政で、産業の国営化を進めながら社会民主主義へと進んでいく。かつての植民地であったアルジェリアとインドシナの独立運動、戦争など内政は不安定であったが、戦後経済の発展が1950~60年代を支えた。政治的にはすでに1950年代にヨーロッパ共同体の案があり、1960年代以降、冷戦下の米ソ二大勢力に対して、ヨーロッパ統合の先頭に立って国際政治にも大きな発言と行動を起こしてゆく。
美術では、1940年代の数本の線だけを描いたカンディンスキーやモンドリアンの抽象絵画、1950年代の線だけが飛び交っているような自由な抽象表現美術、1960年代には絵でメッセージを発表する大衆芸術のポップアート、1970年代には、白だけの絵画や布に光をあてるだけの極端な装飾排除や意味やイメージの無いミニマリズムに、アーティストが説明をしながら見たりメッセージ性の強いコンセプチュアルアートが、戦後の主なアート・ムーヴメントとなった。それらは1990年代の漫画キャラクターや電光掲示板を使った広告、写真アートなどのネオポップ、アニメ、シュミレーショニズムへと続いた。
ジュエリーでは、フランスの素晴らしい宝飾技術を保ち、宝飾師や彫金師、宝石のカット職人が工房で活躍し、質の高い、モダンとクラシック両方のデザイン的にも完成したジュエリーを創作している。またジュエリーデザイナーが台頭し始めた時代である。

主要な地中海・ヨーロッパの歴史

◯ 古代エジプト
古代エジプトは北東アフリカのナイル川を中心にした地にあった文明で、現在のエジプトと同じ場所である。
はじまりは紀元前30500年頃、古代エジプト人の祖先となる民族が移住し、紀元前12000年頃から定住、紀元前10000年頃から牧畜、紀元前8000年頃から農耕、紀元前5000年頃から集落を形作り、エジプト原始王の時代から王朝時代へ続き、紀元前30年頃に最後のプトレマイオス王朝が滅亡し、古代ローマ帝国の属州になるまで続いた文明である。「ヒエログリフ」という象形文字と「ヒエラティック」という神官文字を使っており、正確に起源はわかっていないが、今のところ紀元前3200年頃の「ナルメルのパレット」という装飾レリーフ石板の文字を最古としている。

紀元前3500年頃には単純な絵付け陶器、象牙彫り、櫛、仮面、小さな彫像、壁画がはじまり、ラピスラズリの目をはめ込んだ黄金を張った象牙彫刻像、動物を陰刻した印や、象牙へ人や動物の群像をレリーフした持ち手のあるナイフがある。エジプトの歴史を通じて、壁面彩色レリーフや彫像に優れた作品を残しており、神話と神々、王、王妃、人々、動物、植物、死後の世界を表現している。有名なピラミッドは、埋葬地「ネクロポリス」のための建築物で、紀元前2600年頃のエジプト古王国時代から始まり、進んだ測量術、建築技術をもちいて歴代の王朝が次々と建設し、今に残っている。信仰ではオシリス神、アメン神、太陽神ラーなどの多神教で、現世よりも死後の世界を崇拝した。

紀元前2000年頃からは、墳墓や宮殿の彩色レリーフや壁画には、神や王だけでなく、市井の暮らしや人々が描かれ、当時の生活を見ることができる。紀元前1300年代中頃の有名な彫像に、アメンホテプ4世の妃でツタンカーメンの義母「ネフェルティティ(ネフェルタリ」の胸像(ベルリン国立博物館蔵)がある。また黄金のマスクで知られるツタンカーメンの墓には、マスクの他に黄金の柩、椅子、彫像があり、ハヤブサとロータスをかたどったジュエリーが見られる。黄金の装飾品は古代エジプトの様式の一つで、紀元前600〜300年頃にも、黄金の仮面、大きなラピスラズリのスカラベをセットしハードストーンをモザイクのように組み込んだ黄金の腕輪、外側はシンプルな作りで内側にヒエログリフを陰刻した太いバングルが見られる。

末期となる紀元前332年以降は、アレクサンドル大王がエジプトを征服し、「地中海の真珠」と呼んだ首都アレクサンドリアを建設、ギリシャ化が進み、学術研究所ムセイオン、70万冊の蔵書と研究者のメッカとしてのアレキサンドリア図書館、貿易の中心地として、地中海世界で最も華やぎ文化の高い場所として栄えた。その後紀元前30年頃まで名目上のエジプト王朝が続くが、古代ローマ帝国の支配下になりエジプト文明はローマ化し、3000年を超えるエジプトの歴史が終わった。
ジュエリーでは、紀元前3000年にはすでに黄金にカーネリアン、ラピスラズリ、カルセドニー、半貴石をセットしたネックレス、ブレスレットがあった。装飾のモティーフは神々、さまざまな神のシンボル、ウジャトの目、ロータス(蓮)、スカラベ、ハヤブサ、翼をもつ想像の動物、太陽、動植物が見られる。エジプト美術や装飾品は古代メソポタミア、ギリシャ、ローマの様式とともに「アケオロジー」「古代様式」としてヨーロッパの美術やジュエリーデザインへ大きな影響を与えている。

◯ 古代メソポタミア
メソポタミアとはラテン語で「複数の河の間」を意味し、現在のイラクあたりのチグリス川とユーフラテス川の間の沖積平野にあった文明である。
2つの河の間は増水を繰り返すことで土地が豊かになり農業に適していたため、紀元前10000~7000年には、それまでの狩猟の暮らしから山羊と羊の牧畜へ変化し、人々が定住し始める。初期の文化の中心は民族系統が不明のシュメール人で、紀元前3500年頃には、アッシリア、バビロニア、アッカド、シュメールといった都市国家が作られ、そのほかの多くの民族の戦いによって文明は変化していった。エジプトやインダス文明と貿易でつながっており、王朝、神殿、礼拝、軍隊、農業、商業、金融、公務員などの社会が作られていた。シュメール語は紀元前2600年頃にメソポタミアで使った言葉で、楔形(くさびがた)文字を作り、ハンムラビ法典、ギルガメッシュ叙情詩(シュメールの英雄王物語)などの文学が見られる。

紀元前2000年頃には60進方を使い、天文学、分数、少数があり、税や配分、建築や耕地測量に使い、紀元前1500年頃には図書館を作っている。紀元前700年代には、アッシリア王サルゴン2世が建てた宮殿があり、守護神として翼があり冠をつけた人頭雄牛のレリーフや彫像(ルーヴル美術館蔵)が飾ってあった。紀元前500年代には、新バビロニアのネブカドネザル2世の宮殿が知られ、青と黄色の釉薬で艶を出した瓦を使い、神のシンボルとしてのライオンや雄牛、ムシュクシュという想像の動物がモザイクのように壁面を飾っている(ルーヴル美術館蔵)。紀元前500年代半ばからペルシャ帝国が登場し、エジプトを含めた一帯を支配し、古代オリエントの世界を統一している。しかし紀元前330年に、アレクサンドロス大王が一帯を征服し、ペルシャ帝国は滅亡した。

美術では神殿建築、ラピスラズリを目にはめ込んだ彫像、金属や貴金属へ彫金細工をした兜や壺、壁絵、レリーフ、セラミック、インタリオ(陰刻)のアミュレット型のシール、象牙彫り、金属製の動物、半人半獣のオブジェがある。ジュエリーでは遺跡から出土した黄金の頭飾り、瑪瑙やラピスラズリ、大理石をはめ込んだイヤリング、ネックレス、腕輪があり、神聖な動物とされたガゼル、山羊やライオン、翼のある雄牛をかたどった貴金属彫金のジュエリーやオブジェが見られる。
この時代のジュエリーは古代ギリシャ、エジプト、ローマへと形を変えて引き継がれ、「アケオロジー」「古代様式」としてヨーロッパの美術やジュエリーデザインへ大きな影響を与えている。

 古代ギリシャ_ギリシア
紀元前40万年前、石器時代と言われる頃、すでに人類はこの地に住んでいた。
多くの島と半島を含むギリシャは世界でも稀な非常に豊かな歴史と文化の地で、青銅器時代からエーゲ文明へ、暗黒期、アルカイック期、クラシック期、ヘレニズム期からアレクサンドル大王の支配下時代へ、その後のローマ帝国とビザンティン帝国、そしてオットマン帝国からギリシャ王国へと、数千年におよび、幾たびも都市国家と戦争を繰り返し、作り上げてきた文化である。ギリシャ民族と文化は、地中海に生まれ、育ち、大成した。長らく葬られていた文明は、現代になり、ふたたび数多くが再発見されている。

文明と名をつけられるのは、紀元前3500年頃に始まったキクラデス文明で、紀元前2000年頃にはミノア文明、紀元前1600年頃のミケーネ文明に続いた。この時代にはすでにオリーブオイルやぶどう酒が交易で西アジアやバルカン半島へ輸出しており、他の土地との交わりによる文明の交換があった。美術では骨や大理石の彫人像、シンプルであるが美しい形の土器、船と渦巻く海の波型レリーフをつけたオブジェが残っている。ミノア文明では線文字を使い、陶板にその文字が残っている。
クレタ島に最初の宮殿を作ったのは紀元前2000〜1700年頃、ミノス王の最初の宮殿は8000平米で、魚、漁師、イルカや海、植物、美しい装束の人々や、香壺を持った女性、雄牛と戦う男たちを色彩豊かに描いた壁画(現在の壁画は19世紀の複製)や、CDロムのような丸い陶板へ文字を陰刻し集めた文書館があった。紀元前8世紀末の詩人ホメロスは「クレタには非常に多くの人が住んでいた」と書いている。工芸品として、白、クリーム、赤、オレンジなどで大胆な文様をつけたカマレス土器があり、地中海民族にふさわしく、波、太陽、タコ、貝殻が描いてある。すでに黄金のジュエリーがあり、蜂がシメントリーになったペンダントや、彫金を施した腕輪、粒金細工のネックレスが見られる。

紀元前1600年を過ぎると、軍隊のレリーフをつけた壺、黄金のツノを持つ雄牛、黄金の彫金細工の首飾り、黄金へ礼拝ダンスをする群像を陰刻したインタリオが見られる。同じ時期に、別の古代都市ミケーネでも、同様に近細工のマスク、カップ、刀剣、インタリオがあり、地中海世界が船による交易でたくさんの交わりがあり、ものだけでなく文化も交換していたことがわかる。攻撃的な民族は、土器に兵士や戦争の図を描き、平和な民族は海の産物を描いていたが、どちらの地にも同じようなものがあり、古代の文化は、その土地だけで熟したのではなく、交易による人、もの、文化の交わりによって、より高度な文明に発展していったのである。
紀元前1200~700年頃までは、それまでの文化が失われた時代であった。フランス語で崩壊を意味する「カタストロフ」があり、文化が死滅してしまう。この「カタストロフ」は地震、天候不順による飢餓、人口過剰、他民族の略奪などが考えられるが、今もまだその原因ははっきりしていない。ただ一瞬にして崩壊したのではなく、だんだんと衰退して行ったため、それまでの文化は次のギリシャ文明へ受け継がれていく。

紀元前700年になると、ギリシャ都市国家(メトロポリス)が植民地をともない発展し始め、「大植民地時代」と呼ぶ。植民地は現在の北アフリカ(エジプト北部)、南フランス、南スペイン、南イタリア、黒海にまで広がり、ギリシャ文明は地中海を制覇した。メトロポリスは、各植民地へギリシャ人(クレルキー=植民者)を送り込み、都市国家同士が経済で競争することで、お互いが発展したのである。交易のためコインの利用が盛んになり、この時代の美術は、植民地の文化も取り入れており、エジプト的な動物や人物彫像、黄金細工のジュエリー、スフィンクスやキマイラの絵付け陶器がある。
紀元前600年になると、「アルカイック」期に入る。この時代は貴族の支配から、有力な市民が僭主として支配階級に躍り出て、ギリシャ文字を発明し、それまで口伝えであったホメロスの二大叙事詩「イリアス」「オデュッセイア」やヘシオドスの詩が文字になった。市民の祭典として第一回オリュンピュアが開かれ、ギリシャ世界のポリス(都市)全てから参加者が集まり、建築ではアポロンやヘラ神殿があり、独自の「ギリシャ様式」を確立した時代である。神殿の柱の様式(ドーリア、イオニア、コリント)から始まり、建築バランス、メデューサやアポロン、アテナなどの神々の像の彫刻文様や装飾が、石へ刻まれていく。彫像ではクロス、クロノスという立像形式が始まり、アルカイックスマイルと言われ、ギリシャ独自のドレープをつけた彫像の美しさは、数世紀をかけて交易によってインドへ、シルクロードで日本まで届き仏像に影響を与えていた。陶器には黒と褐色で神話の物語を描いた。

紀元前480年頃から、ギリシャ人のアイデンティティを確立、つまり現在私たちが考える最もギリシャらしい「クラシック(古典)」期となる。
民主制の社会で、ペルシャとの戦いがあった困難な時代でもあり、建築ではパルテノン神殿、文学ではギリシャ悲劇、喜劇、ヘロドトスは「歴史」を書き、ソクラテス、プラトン、アリストテレスの「哲学」が生まれる。美術では、ブロンズ像、黄金のジュエリー、大理石彫像がある。
紀元前332年に、広大な植民地を持ち栄えてきたギリシャのメトロポリス群を、アレクサンドロス大王が征服した。アレクサンドロス大王から紀元前30年頃までの時代を「ヘレニズム」期という。アレクサンドロス大王はペルシャ帝国も征服し、西アジア、ヨーロッパ、北アフリカ、と地中海全てをまとめ大帝国を作り上げた。しかし32歳で亡くなった後、後継者は大王の意思を継ぎながら、分割して王国を作り、ギリシャとオリエント文明を融合したヘレニズム文明を作り上げた。紀元前30年頃にローマ支配になっても、この時期のギリシャ「ヘレニズム」文化はローマ帝国へ引き継がれていき、395年に東西ローマ帝国に分割した後も、東ローマ(ビザンティン)帝国ではキリスト教とギリシャ文化が融合したビザンティン文化を生み、15世紀中頃までギリシャのヘレニズム文化を受け継いでいく。
この時代の美術はヨーロッパの古典であり、古代メソポタミア、エジプト、ローマの様式とともに「アケオロジー」「古代様式」としてヨーロッパの美術やジュエリーデザインへ大きな影響を与えている。

◯ 古代ローマ
伝説では、トロイア戦争でギリシャを出たトロイアの武将アイネイアース一行は、イタリア半島のラティウムに上陸し、現地の王女を妻に迎え国作りをし、その息子は父の地を統治した後に、アルバ・ロンガという名の新しい都市を作った。その後、子孫の兄弟王子が戦い、弟が勝ち、兄の娘シルウィアだけが残り、娘は巫女となってマルス神と交わり、ロムレスとレムスという男の双子が生まれる。怒った叔父(勝った弟)は、双子を川に流したところ、狼の乳と羊飼いに育てられ、大きくなって仇の叔父を打った。双子は新しい都市を作ろうとしたが、ある日いさかいを起こし、ロムレスがレムスを殺してしまう。残ったロムレスがパラティヌスの丘に作ったのが「ローマ」の始まりであった。
ローマの創設者が「トロイアの武将」と「マルス軍神」の子孫で、神に守られた者であったことを物語っている。そんな神話を元に、紀元前753年4月21日がローマ建国日となったのである。

伝承によると、ロムルスはテヴェレ川からローマを作り、7つの丘があり、7人の王が治めた時代があった。最初は小さな村からはじまったが、移民やたくさんの部族を受け入れてどんどん人口を増やし、市民権を与えた。ローマ王は血縁ではなく、選挙で選んだ王であったが、紀元前509年、最後の王タルクィニウスで王政が終わったのち、共和制へと変わり2人の執政官が都市を司った。これが紀元前27年まで続いた共和制ローマの始まりである。共和制ローマは、地中海世界の覇者として、ローマ帝国と呼ばれるまでになった時代である。ヴェスーヴィオ火山の噴火で一夜で灰の下に埋もれた町ポンペイもこの時代にローマ支配下になり、商業都市として栄えていた。

美術では、ローマ共和制時代はギリシャ文明の影響をほぼそのまま受けている。ローマの7人の王時代のように、敵の人間や文化を滅亡させずローマの懐へ取り込む方法によって、ローマの国と文化を作り上げたのである。かつて地中海を制覇したギリシャの都市国家全域を支配したローマ帝国は、ギリシャの町、建築、芸術家、職人をそのまま受け継いだ。生かされたギリシャ人の芸術家たちは、ローマ高級官僚たちの注文に答え、デザインやバランス、題材、技術はギリシャのヘレニズムの伝統をほとんどそのまま借用した、神殿、家、壁画、レリーフを作った。戦いによる領土拡大がテーマだったローマ共和制時代は、レリーフには戦争、兵士、軍神マルスへの勝利祈願、神官たちといったモティーフが見られる。現在わかっているローマ最古のレリーフは、マルスの丘で発見した紀元前120年頃の建築物の大理石レリーフ「ドミティウス・アエノバルブス」で、兵士、軍神マルスへ雄牛、羊などを生贄にを捧げる儀式の浮き彫りがある。(ルーヴル美術館蔵)また同じ建造物のレリーフの一部には、海神ネプチューンとイルカのレリーフがある。(ドイツ ミュンヘン古典古代彫刻博物館蔵)建築では、今は無いポンペイウス劇場、執政官や文筆家、哲学者たちのブロンズや大理石像がある。ポンペイ遺跡には、フレスコ壁画や壁や床モザイクがあり、モザイクにはギリシャ悲劇の仮面、蛇、カバ、鳥、ワニ、猫、ライオン、ヒョウなどの動植物、果物などの食べ物、兵器、アレクサンドル大王の戦いの図が見られる。フレスコ画は紀元前200年ごろからはじまり、トロンプルィユというだまし絵では、大理石のように見せたり、窓から見える風景を描いている。他には幾何学文様、オリエントの国まで支配したローマ帝国ならではの東方の神獣グリフォンの図や天使、秘儀、ギリシャ神話がある。

紀元前27年、ガリア(ヨーロッパ)まで征服した養父シーザーのあとを継ぎ、アウグストゥスはローマ帝国初代皇帝となり、「帝政ローマ」が始まる。帝政ローマのテーマは「パクス・ローマ 〜平和のローマ」である。戦争の多かった紀元前から、中央集権政治により平和で落ち着いた紀元後へと変わっていく。ローマの街をギリシャ的な大理石建築で彩り、水道や道路などの公共施設を整備をし、文化に心血を注ぎ、今の私たちのローマのイメージ「永遠の都ローマ」「ローマの道は全てに通じる」を作り上げた時代である。公共の広場と建築や銅像、レリーフ、フレスコ画、金銀細工、コインといった美術工芸が栄え、属州ガリア(ヨーロッパ)からは素材を、オリエントの国々からは珍しい産物を、遠くは古中国から絹を…と、交易と商業の繁栄で、世界から美しいものがローマへ運ばれる。
アウグストゥス初代皇帝は、多様化していたローマを「芸術と美」でまとめたのである。この後、2000年を超えて、アウグストゥス初代皇帝は施政者の鏡と崇められ、シャルルマーニュ皇帝、ナポレオン1世皇帝といったヨーロッパの王侯や皇帝たちの目標と手本になった。その後につづくローマ皇帝は、誰もがアウグストゥス初代皇帝を手本にローマを繁栄させていく。しかし313年にはコンスタンティヌスが首都をローマからコンスタンティノポリス(現在イスタンブール)へ移し、392年にキリスト教が国教となり、395年に東西ローマに分裂する。東ローマはビザンティン帝国としてギリシャ文化を引き継ぎながら1453年にオスマン帝国によって滅亡、西ローマは476年にガリア(北ヨーロッパ)のゲルマン人によって滅亡した。

ジュエリーやオブジェでは黄金細工、ハードストーンのカメオ、インタリオ、彫金をつけた銀食器、色ガラスやカメオガラスの壺、大理石彫刻が見られ、この時代の様式は古代メソポタミア、ギリシャ、エジプトとともに「アケオロジー」「古代様式」としてヨーロッパの美術やジュエリーデザインへ大きな影響を与えている。

◯ 東ローマ帝国_ビザンティン帝国_ビザンツ_ビザンチン
395年にローマ帝国が東西に分裂し、東ローマ帝国がローマ帝国の後継国となり、首都をコンスタンティノープル(現トルコ_イスタンブール)とし、今の研究では、7世紀ごろからビザンティン帝国と呼ぶようになる。一時はゲルマン圏から現イタリアまで領土を支配し、オリエントと西ヨーロッパの中間地点という地域性から、ギリシア的な要素が強い国家となり、文化芸術に独自の様式を作り上げた。1453年にはイスラム勢力のオスマン帝国の首都陥落によって帝国は終わりを告げる。ビザンティン帝国のもとで展開された建築や美術上の一つの様式はビザンティン(ビザンツ)美術、様式と呼び、ギリシア・ローマの古典文化を継承しつつ、オリエント文化も取り入れ、ドームとモザイク画やフレスコ画による装飾の聖堂や、ギリシア正教の聖具のイコンが見られる。工芸ではエマイユ・クロワゾネや彫金細工があり、王冠や聖遺物容器の装飾にも用いられた。その壮麗な美術様式は、帝国崩壊後も、中世ヨーロッパやルネサンスの教会建築、工芸美術にも影響を与え、一つの大きな様式として美術史に残り、現在もその影響を与え続けている。

◯ 西ローマ帝国_神聖ローマ帝国
シャルルマーニュ大帝_カール_オットー1世_ドイツ_オーストリア_チェコ_イタリア北部

西ローマ帝国は、395年にローマ帝国が東西に分裂した西側のローマ帝国で、イタリア半島を中心にした国家。
はじめはローマが首都であったが、ミラノ、ラヴェンナへと移り、少しづつ弱体化していたところへ北ヨーロッパからのゲルマン人オドアケルの反乱を受け、476年に滅亡した。その後はオドアケル総督がかつての西ローマ帝国一帯を統治したが、493年に東ローマ帝国が派遣した別のゲルマン人テオドリックが滅ぼし、東ゴート帝国を作り、ラヴェンナを都とした。
かつての西ローマ帝国を統治したゲルマン人のオドアケルとテオドリックは、ローマ文化を引き継いて、平和をもたらし、より繁栄させた。
その後、東ローマ帝国は、かつての西ローマ帝国の地を取り戻そうと何度か遠征を行ない、500年中頃には統一した時期もあったが、文化的に全く別物(東ローマ帝国はギリシア正教でギリシャ文明を引き継いでいた)になっていたうえ、遠征が与えた打撃で、ローマは壊滅的となり、ゲルマン系民族がばらばらに統治し続け、文化的にも衰退した。
800年に、フランク王国カロリング王朝の国王シャルルマーニュ(カール)が、ローマ皇帝としてローマ教皇レオ3世に戴冠を受け「ローマ帝国」が始まり、1806年まで1000年余り続くこととなる。「ローマ帝国」は古代ローマ帝国の後継ぎ、カトリック教会の守護者として、ヨーロッパ全体へ権力を持っていたが、各地は強力な領主がおり、982年のオットー1世以降は、現ドイツと北イタリアのあたりを統治した。
1254年には、たくさんの領主との連合とした「神聖ローマ帝国」、中世後期には「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」と名前を変えている。
「神聖ローマ帝国」は、現在のドイツ、ボヘミア地域、オーストリア、北イタリア、スイス、オランダが時代によって、分裂や統合を繰り返しながら統治しており、主な統治者にはザクセン公国、ハプスブルグ家、プロイセン公国がいる。
1792年以降のナポレオンによる侵略がきっかけとなり、各領地が国として自立し、「神聖ローマ帝国」は1806年に消え去った。
美術的には、古代ローマ様式から中世、ルネサンス、バロック、ロココ、クラシック、19世紀へと1000年に及び様式が変わったが、文化的にゲルマンとローマ・カトリック教の融合が基本であった。

◯ スペイン王国_ポルトガル王国
イベリア半島_カディス_古代ローマ帝国支配_西ゴート王国_イスラム勢力ウマイヤ朝支配_アッパース朝_ファーティマ朝_セビリア王国_トレド王国_サラゴサ王国_グラナダ王国_バレンシア王国_カスティーリャ王国_レコンキスタ(再征服運動)_1143年ポルトガル王国_アラゴン王国_大航海時代_スペイン王国_スペインハプスブルグ_コロンブス_ヴァスコ=ダ=ガマ_黄金の世紀_スペイン帝国_スペインブルボン朝

スペイン王国は、イベリア半島のほぼ全域を領土とし、原始時代から人が住んでおり、アルタミラ洞窟の壁画が知られている。紀元頃にはオリーブオイル、ワインの産地として古代ローマ帝国の属州であった。711年にイスラム勢力が征服し、ウマイヤ朝、アッバース朝と続いたが、900年代から始まったキリスト教勢力によるレコンキスタ(再征服運動)によって、1200年代中頃にはイスラム勢力が撤退し始め、1469年にカステーリャのイザベル女王とアラゴン王国のフェルナンドが結婚し、連合国が生まれスペイン王国のもととなり、1492年には、キリスト教の王国が完全にイスラム勢力を陥落させ、800年弱に及ぶイスラム勢力の支配から脱した。1400年半ば〜1600年代半ばの大航海時代にポルトガル王国とともに、アフリカ、アジア、南米に植民地を持ち、ヨーロッパ最大の海洋国として、黄金の世紀を迎えた。1500年代後半からは、ヨーロッパ各国と戦争やプロテスタントとの宗教戦争の泥沼に入り込み、黄金時代は終わりを告げる。1700年末にはフランスのナポレオンの侵攻、1814年のスペインブルボン王朝の復位、フランコ将軍支配、内戦を超えて現在のスペインとなっている。
ポルトガル王国は、1129年に建国、1400年半ば〜1600年代半ばの大航海時代にスペイン王国とともに、アフリカ、アジア、ブラジルに植民地を持ち、ヨーロッパ最大の海洋国として、黄金の世紀を迎えた。1910年に共和国となって現在に続いている。
美術的には、北ヨーロッパのキリスト教美術とイスラム勢力支配下時代の壁画、レリーフ、モザイクの影響があり、スペイン、ポルトガル独自の様式を持つ。エル・グレコ、ゴヤ、ピカソ、ミロ、ダリといった独創的なアーティストを生む土地である。

◯ フィレンツェ_ミラノ公国_イタリア
メディチ家_スフォルツア家_ゴンザーガ家_マントヴァ公国_ルネサンス_文芸復興

フレンツェは古代にはエトルリアの一部で、その後古代ローマ帝国の支配下になった歴史ある都市である。中世には共和国として、毛織物と金融で栄え、メディチ家、パッツィ家といった金融王が街を栄えさせ芸術を保護し、1400~1500年代に、プラトンなどの古典学芸を研究する学術を基本に、ボッティチェッリ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロといった芸術家や、ルネサンス美術の生みの親となった。メディチ家は16世紀にはトスカーナ公国として、カトリーヌ・ド・メディチとフランス王アンリとの婚姻があるほど、富と名声があったが、1737年に最後の君主ジャン・ガストーネを最後にメディチの支配が終わる。1700~1800年代はハプスブルグ家の下にあり、1860年にイタリア王国に合併し、今に至る。

ミラノ公国は、中世から北イタリアの都市ミラノにあったルネサンス美術の中心地の一つである。古代ローマ帝国のガリア属州で、1000年ごろから毛織物や武具で発展をした。1300年代にはヴィスコンティ家、続いてスフォルツァ家が権力を握る。中でもスフォルツァ家のロドヴィコは、芸術を保護し、フィレンツェと同じくらいルネサンス美術を盛り上げ、レオナルド・ダ・ヴィンチを呼び寄せ、その時にミラノのサンタ・マリア・グラツィエ教会の「最後の晩餐」を描いたのである。
1535年にはスペイン、1707年からはオーストリアの支配下になり、オーストリアハプスブルグ家が統治、1796年にはナポレオンに支配されたのち、1860年にイタリア王国に合併し、今に至る。民族的には北ヨーロッパのゲルマン系カトリックで、南イタリアとは文化や思考が違う。
美術についてはアンティークジュエリー辞典 ルネサンス様式の項を参照。

◯ ローマ
ローマ法王_バチカン市国_ヴァチカン_ヴァティカン

現イタリア中部の都市国家から、地中海の中心「古代ローマ帝国」としてヨーロッパ文化の基礎となった文明を築いた。現在はキリスト教カトリックの総本山ヴァチカン市国を懐に含むイタリアの首都である。
ヴァチカンはかつて古代ローマ帝国のネクロポリス(死者の埋葬地)で、キリスト教を容認した古代ローマ皇帝コンスタンティヌス1世が聖人ペテロの墓としたことから、ローマ司教が住み少しづつカトリックの中心地になり、752年から1860年頃までローマ教皇領となり、17世紀には現在のサン・ピエトロ寺院が出来上がる。1860年にイタリアが統一すると、莫大な領地を失い、一時イタリアと教皇は険悪な関係となったが、1929年にイタリアがバチカンを独立した国として認め、その代わりバチカンは領地をイタリアへ完全に渡したことから、現在のバチカン市国となった。
歴史についてはこのページ上の「古代ローマ」を、美術については、アンティークジュエリー辞典 古代ローマの項を参照。

◯ ロシア・ツァーリ_帝政ロシア
1547年_イヴァン4世_ロシア・ツァーリ国_ユーラシア大陸支配_双頭の鷲_1613年_ミハイル・ロマノフ_ロマノフ朝_1721年-1917年_ピョートル1世皇帝_インペラートル_ロシア正教会_ロシア帝国_エカテリーナ女帝_ニコライ2世_アレクサンドラ皇后_ロシア革命

かつて、この広大な大地に遊牧民族が住んでいた。800年代に北の民族ノルマン人と、ゲルマン系、スラヴ人が混ざり合いロシアの元が作られる。882年にはキエフ公国が作られ、ギリシャ正教とビザンティン帝国の文化を取り入れた。1200年代にはモンゴルの支配下になったこともあったが、1400年代にモスクワ大公国が成立してからは、経済、文化ともに大国として君臨している。
ロシア語、ギリシャ正教が国教で、スラヴ系民族国家である。
1500年代にイヴァン4世はツァーリとして君臨し、「ロシア・ツァーリ」の封建国家となる。ツァーリは、強力な軍隊と残虐な方法で貴族層を抑え、皇帝が完全支配の恐怖政治である。
1600年代には、ミハイル・ロマノフによってロマノフ王朝がはじまり、1700年代前半のピョートル大帝時代には、「バルト海の覇者」と言われ、シベリアまで領地を広げ、ロシア帝国となる。1700年代後半はエカテリーナ女帝のもとで、より強大な国となり、1800年初めのナポレオン侵略にも勝ったが、ヨーロッパとの戦いや日露戦争の敗北があり、1917年のロシア革命によって、ロマノフ王朝が終わった。その後はソビエト(ソヴィエト社会主義共和国連邦)共和国、そしてロシア連邦として現在に至る。
美術では、当初から古代ギリシャ的なヴィザンティン帝国の影響を大きく受け、1453年にヴィザンティン帝国が滅ぶと、ロシアはその遺産を受け継ぎ、モスクワがロシア芸術の中心地となった。
イコン、細密画、モザイクが聖堂や教会を飾り、ポーチカという丸みのある尖った屋根が特徴の伝統的な木造建築、ウラジーミルの生神女就寝大聖堂、至聖三者聖セルギイ大修道院などのロシア建築独自の聖堂や、冬の宮殿(エルミタージュ美術館)がある。1700年代後半はエカテリーナ女帝は、フランスのルイ14世太陽王とヴェルサイユ宮殿、古代ローマ皇帝を手本に、古代様式を建築、絵画、彫刻に取り入れた。女帝自身も古代からルネサンス時代のカメオ、インタリオのコレクションを持っているほどで、自らを神話の女神として描いた絵が残っている。
19世紀には独自のロシア文学、ロシア音楽を作り出している。有名な作家ではツルゲーネフ、プーシキン、トルストイ、ドストエフスキーがいる。20世紀にはロシアン・アヴァンギャルドなどの前衛芸術を生み出し、ヨーロッパ、オリエントいずれにも属さない、ロシア独特の芸術を持っている。

イギリスの歴史

◯ 古代
紀元前9〜5世紀_ケルト民族_文化 紀元1世紀_ローマ侵略ブリタニア時代 -5世紀_ゲルマン民族大移動

◯ 中世
イングランド_5〜7世紀ゲルマン系アングロサクソン部族_キリスト教_アングロサクソン七王国時代_ヴァイキング侵入_ノルマンコンウエスト_1066-1154ノルマンディー公ギョームによるノルマン朝イングランド王ウィリアム1世_1154_フランスアンジュー伯イングランド王ヘンリー2世によるプランタジネット朝_1215マグナカルタ_エドワード1世_ウェールズ征服_1337エドワード3世_フランスとの百年戦争_ヘンリー6世_シャルル7世_ジャンヌダルク_1453年イングランドのフランス敗退_リチャード2世_1455ランカスター家_ヨーク家_薔薇戦争
ウェールズ_スコットランド王国_アイルランド王国_ケルト文化_小国家_民族混在

◯ 近世
イングランド王国_15世紀末_16世紀_絶対王政_海外発展_1485_チューダー朝_ヘンリー7世絶対王政_ヘンリー8世_6人の王妃_イングランド国教会成立_エドワード6世_メアリー1世_1588エリザベス1世女王_1603_海洋帝国_イングランドルネサンス_ジェントリ

◯ 17世紀_1603スチュアート朝ジェームズ1世_チャールズ1世_1648_共和国_クロムウェル_1660_チャールズ2世_王政復古_ジェームズ2世_イングランド王国_メアリ2世_ウィリアム3世_立憲君主制_東インド会社_アメリカ大陸へ_大英帝国

◯ 18世紀_アン女王1702_1707_イングランド_スコットランド_グレートブリテン王国_1714ハノーヴァー朝_ジョージ1_2_3世_内閣制度_産業革命_自由貿易_資本主義社会_海外植民地戦争_1776年アメリカ独立宣言_ジョージ3世

◯ 19世紀_1801_大ブリテン_アイルランド連合王国_ジョージ4世_ウィリアム4世_1837_ヴィクトリア女王_1901_第二大英帝国_世界の覇者

◯ 20世紀
サクス=コバーグ=ゴータ朝エドワード7世_ジョージ5世_1917_ウィンザー朝_エドワード8世_退位_ジョージ6世_エリザベス2世_1927_グレートブリテン_北アイルランド連合王国

※ 時代によって、ブリテン諸島(イングランド、ウェールズ、スコットランド、アイルランド他)の名称は変化するが、ここではイギリスと記載する。
※ 王や皇帝の在位期間をのぞき、年代と様式は歴史観、地域によって多少の流動が見られ、ここでは広くは世紀、狭くは年単位で示している。

文化

◯ グラン・トゥール_グランド・ツアー_フランス_イギリス
18世紀から19世紀にかけヨーロッパの貴族・富裕ブルジョアの子弟が行った大旅行。古代遺跡の発掘も盛んになった時期で、ミラノ、ヴェネチア、ローマ、ナポリなどのイタリアはグランドツアー行程の中でも最も多い訪問地であった。
グランドツアーは数ヶ月、あるいは1年を超える長期に渡る旅で、莫大な費用と時間をかけて行われ、教師格の付き添いと共に、フランス、イタリアでの古代遺跡発掘の見学、古代からの政治学、文化芸術を学ぶ旅である。フランス人はイタリアへ、イギリス人はフランスを経由し、まずは社交界で礼儀作法やマナーを学んで服装を洗練させ、その後イタリアへ、が通例であった。
予期せぬ危険とも背中合わせであったが、1千年を超える文明の地を訪れ素晴らしい風景に感嘆し、ヨーロッパ文明の源に触れることが出来る歓喜が人々を引きつけた。
現代の旅とはかけ離れた次元の旅行で、当時のイギリスの作家は・・・『イタリアのごとく驚きと歓喜に満ち教養を得る旅が可能なのは世界の何処を探しても無いであろうと思われる。芸術はここから生まれ、数千年を超え今目の前に存在する彫刻や絵画、モザイク、建築の全てをこの目で見ることは何という驚きであろうか』と書き残している。
子弟達はグランドツアーで得た教養や知識、そして当地の遺跡コレクションや宝飾品を国へ持ち帰り、自国の文化事業に貢献している。裕福な子弟だけでなく、研究者、芸術家、建築家たちもイタリアへ行き、古代ローマやルネサンス時代の文化を研究し学び、自国へその成果を送り届けていた時代のカルチャー・トラベルである。

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