宝飾メゾンA to Z ジュエラー・宝飾師・作家

ルーヴルアンティークでお取り扱いをしているアンティークジュエリーとオブジェの「宝飾メゾン、ジュエラー、宝飾師、宝飾作家」をご案内しているページです。
アンティークジュエリーとオブジェをもっと詳しく知るために、このページ最下方もご覧ください。

アンティークジュエリー メゾン 宝飾師 宝飾商 ジュエラー 名称 歴史

◯ ファリーズ FALIZE ジュエラー_宝飾商
フランスのジュエラーで1838年にアレクシス・ファリーズ(1811-1898)が創立。息子のリュシアン・ファリーズ は父とともにメゾンを支え、父アレクシスは1876年に引退し、ファリーズ 3兄弟がメゾンを継いでいる。
メゾンは19世紀中頃からヨーロッパ宮廷や富裕なブルジョワ層を顧客に隆盛し、特に中世、ルネサンス時代の様式からインスピレーションを受けた作品を得意とし、ナポレオン3世皇帝時代には、ヨーロッパの王侯貴族や富豪の顧客が名を連ねる。1860年代以降には息子のリュシアンがアレクシスと仕事をしている。父アレクシスがそうであったように協力者を選び、東洋美術に影響を受けたジャポニズムのジュエリーを作り、クロワゾネ・エマイユを使ったジュエリーを創作をしており、1867年のパリ万国博覧会へ出展、1878年の万国博覧会では、グランプリを受賞している。19世紀後期には特にエミール・ガレとも協力し、ジュエリーや金細工におけるアールヌーヴォーの発展に重要な役割を果たした。

(ファリーズのジュエリー_アレクシス・ファリーズの肖像)

 

金細工、エマイユ、彫刻的な作品に高い評価があり、ジュエラーとしての隆盛は衰えず、ヨーロッパ全土の宮廷のティアラや宝飾品の注文を受けている。皇帝一家のボナパルト家、英国のヴィクトリア女王、ロシア皇室、エジプト王ファード、スペイン王アルフォンス3世、セルビア王ピョートル1世など、名だたる顧客を抱えていた。メゾンはリュシアンの息子アンドレが逝去する1936年まで続いていたが、逝去後、扉は閉じられた。

ルネ・ボワヴァン_René Boivin_ジュエラー_宝飾商 
ルネ・ジュール・ボワヴァンはフランスのジュエラーである。1864年パリ生まれのルネは16歳で兄弟のうちの一人のもとで宝飾師として修行をはじめ、続いてデッサンの勉強をした。
彼が職人でありながら素晴らしいジュエリーデザインが可能だったのは、このような基礎があったからでもある。
1890年、34歳で独立し1993年には当時有名なファッションデザイナーであったポール・ポワレの妹のジャンヌと結婚し、メゾン・ボワヴァンは当時の社交界とデザイン界で最も先端をいくメゾンの一つとなった。パリのトゥルビゴ通り38番地にメゾンをかまえ、いくつかの高度な技術をもつ宝飾工房や宝飾職人と仕事をしメゾン・ボワヴァンの作品を創作した。
1917年にルネが逝去したのち、夫人のジャンヌがメゾンを引き継ぎ、アーティスティックで流行に左右されないデザインのジュエリーやオブジェを創作し続け、1912年から1931年の間には、当初販売員として、のちにデザイナーとしてシュザンヌ・ベルペロンとともに仕事をした。ジャンヌは美術学校を出たベルペロンの才能を見抜き、開花させたともいえる。1932年には著名なデザイナーとしてジュリエット・ムタールが、1938年にはルネとジャンヌの娘ジェルメーヌが加わった。

ルネ・ボワヴァン アーティストジュエラー アンティークジュエリー&オブジェ 専門店 ルーヴルアンティーク
ダイヤモンドなどの貴石だけでなく、水晶、アクアマリン、ムーンストーン、瑪瑙などの半貴石と呼ばれる宝石をつかい、自然界をモティーフにした独自のデザインや、絵画や彫刻といった芸術にインスピレーションをうけたアーティスティックなジュエリーを創作、動くヒトデなどのアーティキュラシオン・ジュエリーもつくり、特にパリやニューヨークの社交界で歓迎された。夫人のジャンヌは1958年に逝去し、娘のジェルメーヌとジュリエット・ムタールが1970年までメゾンを引き継いだ。その後は1991年にイギリスのアスプレイがメゾンと工房を買取り、ルネ・ボワヴァンの精神を引き継ぎながら今に続いている。

○ ニコラ・マルチェシーニ_ Nicola Marchesini_ジュエラー_宝飾商1869年にフィレンツェで創業したジュエリーメゾンで、王侯貴族や大ブルジョワが顧客で、いわゆる「宮廷のジュエラー」であった。
フィレンツェとローマに拠点があり、1875年にはローマの宮廷御用達となり、ローマのコルソ・ローマ138番地へも店を構えた。
現存は少ないが、古代様式のジュエリー、フィリグリー(細かい縄目状の金細工)や粒金細工を使い、古代ギリシャ・ローマ時代のジュエリー様式を踏襲した作品を作り、イタリア宮廷だけでなく、フランスにも顧客があったことが認められている。
例として、イギリスのブリティッシュ・ミュージアムには、イヤリングとペンダントのドゥミ・パリュールが保存されている。
同時代のカステラーニと同様に、古代遺跡の発掘により、古代様式のジュエリーあるいは遺跡から発掘したジュエリーにインスピレーションを受けた作品を創作した。
ジュエリーデザインだけでなく、フィリグリーやグラニュレーションなどの古代の金細工技術を研究し復活させたイタリアの著名なジュエラーのひとつで、1900年頃まで存続した。

ニコラ・マルチェシーニ 古代金細工 19世紀ジュエラー ルーヴルアンティーク アンティークジュエリー&オブジェ専門店

○ ティファニー_Tiffany & Co._宝飾商_ジュエラー_美術工芸品店_メゾン
1838年にアメリカ、ニューヨークのマンハッタンにて、チャールズ=ルイス・ティファニー(1812-1902)とパートナーのJ・B・ヤングによって装飾品店として創業した。
チャールズ=ルイス・ティファニーの妻は、ジョン=B・ヤングの妹で1839年に結婚している。
チャールズ=ルイス・ティファニーのキャリアは、15歳の時に、綿事業をしていた父の小さな雑貨店での販売員からはじまった。その後、父から借りた1000ドルを元手に、J・B・ヤングとともにニューヨークのマンハッタンに小さな店を出し、クリスタルガラスや陶磁器、銀器、ジュエリー、時計などの贅沢品を販売し、1841年にはもう一人のパートナーのエリスを加え、店名を「ティファニー、ヤング・アンド・エリス」と改名した。
店は最高級品だけを扱い、陶磁器とボヘミアクリスタル専門店としても知られるようになった。
また、1848年のフランスでの2月革命により王侯貴族から宝飾品を買い取り、アメリカで紹介し、またダイヤモンドへ投資を行い宝飾事業に成功する。
ここからチャールズ=ルイス・ティファニーは本格的に宝飾品の創作と宝石販売に重点をおくようになり、それがアメリカの偉大なジュエラーの始まりであった。
1853年にチャールズ=ルイス・ティファニーが全権を持ったのちは、店名をティファニー&Co.とし、1850年にはパリに、1868年にはロンドン店を構える。家具、ブロンズやガラス製品、絵画、銀製品、陶磁器、ジュエリー、時計など幅広いジャンルの美術工芸品を手掛け、アメリカだけでなく、ヨーロッパの製品をアメリカへ紹介した。
1877年にはフランス王家のジュエリーの一部を買取り販売し、宝飾商としてのさらなる名声を上げた。

ティファニー ルーヴルアンティーク アンティークジュエリー&オブジェ専門店
1878年には南アフリカで採掘されたイエローダイヤモンドを購入し、128.54カラットの「ティファニー・ダイヤモンド」としてメゾンのシンボルにしている。6本立爪のダイヤモンドセッティングをデザインし、ティファニー セッティングと呼び、アメリカのキング・オブ・ダイヤモンドと言われた。
チャールズ=ルイス・ティファニーは、メトロポリタン美術館のパトロンであり、ニューヨーク美術協会の創設者のひとりでもあった。アメリカの発明家トーマス・エジソンとともに、劇場用照明器具を制作し、ブロードウエイのショーの発展にも貢献している。
1902年のチャールズ=ルイス・ティファニーの逝去後、息子のルイス・コンフォート・ティファニー(1848-1933)は、メゾンを引継ぎ、経営者として、アーティスティックディレクターとして、ガラスランプやステンドグラスの芸術家として活躍した。
アメリカの製品だけでなく、フランスの芸術家、エミール・ガレやドームといったガラス工芸品や絵画をニューヨークで紹介し、特にハイジュエリーは主にフランスの工房や芸術家から買い付けや創作オーダーを行い、ティファニーの名でニューヨークで販売もした。
1920-1940年代にはアールデコ・スタイルを発表し、1939年のニューヨーク万国博覧会で大成功をおさめる。
戦後は、1955年にアメリカの実業家ウオルター・ホービングがティファニーの株式を取得し、経営者の一員となり、数々の宝飾デザイナーとコラボレーションも行い、経営を立て直した。
コラボレーションの第一人者がジーン・シュランバーゼー、その後エルサ・ペレッティ、ジーン・ムーア、パロマ・ピカソと続き、シュランバーゼーのジュエリーは、ジョン・F・ケネディ大統領夫人ジャクリーヌの御用達として知られている。
1979年にエイボン・プロダクツ社がティファニーを買収し、現在はLVMHの傘下となり、経営が創業者のもとを離れたのちも、ティファニーは世界で最も有名なジュエラーとして続いている。

スザンヌ・ベルペロン_Suzanne Belperron_ジュエリーデザイナー_ジュエラー_宝飾商
スザンヌ・ベルペロン(1900-1983)は、フランスのジュエリーデザイナーである。通っていたパリのボザール(国立美術学校)で1890年に創立の著名なフランスの宝飾商ルネ・ボワヴァンの妹と出会う。
ルネ・ボワヴァンが逝去したのち、ボワヴァン夫人が継いだメゾンで、ベルペロンは1921年から1931年までジュエリーデザインの仕事をした。
1932年に、ベルナール・ハーツ(英:ヘルツ)がメゾン・ボワヴァンを買取り会社化し、スザンヌ・ベルペロンはメゾン・ハーツ(ボワヴァン)のアーティスティック・デレクターおよび共同経営者となる。
その後ロスチャイルド家の経済的な後ろ盾を得て、メゾンは隆盛するが、第二次世界大戦でハーツは逝去し、ベルペロンが引き継ぎいだのち、戦後にはハーツの息子ジャンとベルペロンが共同参画し別のオーナーが経営を行いメゾンを続けた。
1970年にベルペロンの夫が逝去し、メゾン・ハーツ(ボワヴァン)が1974年にジャン・ハーツにより解散した時点で、スザンヌ・ペルペロンはキャリアを終えることに決定し、作品は美術館へ寄贈するなどし、ジュエリーデザイナーとしてのキャリアを終えたのち、個人的に顧客のジュエリーを創作した。
現代的でアヴァンギャルドなジュエリーデザインでアメリカ、ヨーロッパで有名となり、ヴァンクリフ&アーペル、ティファニー、ニューヨークの著名なジュエリーメゾンが契約を依頼するが、断っている。
「私のスタイル(様式)が私のサイン(刻印)」と公言している。

 フランスのジュエリーデザイナー「スザンヌ・ベルペロン」アンティークジュエリー&オブジェ専門店 ルーヴルアンティーク

当時の絵画や彫刻などのアート・ムーヴメントや、他にないベルペロン自身のセンスを駆使し、自然界のモティーフを伝統的から脱した斬新な組み合わせやデザインで、宝石や貴金属を自在に使った抽象的な表現をしたジュエリーは世紀を超えて、世界のセレブリティに愛されている。
顧客にはファッションデザイナーのスキャパレッリ、英国のウィンザー公爵夫妻、著名な俳優や芸術家が名を連ねている。
1963年にはレジオンドヌール勲章を受勲。
1983年に83歳に逝去した。 1987年のウィンザー公爵夫人所蔵ジュエリー のオークションにより、ペルペロンの名が再び世に知られるようになった。

◯ カステラーニ Castellani, Fortunato Pio ジュエラー_宝飾商
フォルチュナート・ピオ・カステラー二(1794-1865)がイタリア、ローマに創立。息子アレッサンドロ(1823-1883)、孫息子オーギュスト(1829-1914)の3代に渡り存続した宝飾工房及び宝飾商である。
息子アレッサンドロが1860年パリのシャンゼリゼに、1870年にロンドンに宝飾店及び工房を開業し、1861年フィレンツェや1881年ミラノでの宝飾博覧会にも出展し、成功を収める。
オーギュストの一人息子アルフレッド(1856-1930)は、存命中父の仕事のデザインや修復に助力したが1930年に亡くなり、工房は閉じられた。
亡くなる以前にカステラーニの古代ギリシャ・ローマ時代の芸術品コレクション(花瓶、彫刻、ブロンズ像など)をはイタリア国家へ寄贈され、美術館へ収められた。
多くのコレクションされていた宝飾品はオークションによりヨーロッパ各国の美術館へ収められた。
古代エトルリアの発掘装飾品に魅せられ、自ら収集し、技法がわからなくなっていた宝飾技術や古代様式を、アンティック・リヴァイヴァルとして復刻し、ヨーロッパ中に影響を与えた。また、ビザンティン様式、中世様式の作品を創作し、各国の王国貴族や美術館、博物館に保存されている。

◯ カルティエ Cartier ジュエラー_宝飾商
1847年にフランソワ・カルティエによって創立したフランス、パリを代表する宝飾商の一つである。
1870年代以降は息子アルフレッド、その後に孫息子のルイが参画し、1989年には現在も本店があるパリ1区のヴァンドーム広場から続くラ・ぺ通り13番地へ本拠を構える。1906年にはロンドン支店をジャック・カルティエが引き継ぐ。
ロシアのファベルジェ、フランスのカルティエと言われるほどエマイユとプラチナ作品が代表的で、ヨーロッパ王侯貴族や世界の富豪たちが顧客リストに名を連ね、ジュエリーやオブジェを注文した。クラシックな宝飾技法を踏襲しながら、常に時代の最先端の文化芸術運動に着目し、創作したジュエリーやオブジェは、「カルティエ・スタイル」と言われる。
1970年代にはカルティエ一族の手を離れるが、メゾンは現在も世界的なフランスのジュエラーとしての名声が存続している。

◯ ショーメ Chaumet ジュエラー_宝飾商
1770-80年頃にマリ=エティエンヌ・ニト(1750-1809)によりパリで創業。ナポレオン1世皇帝の宮廷の御用達ジュエラーとなる。革新的でデザインの美しいジュエリーを得意としたショーメは、皇后ジョゼフィーヌを筆頭とした宮廷の貴婦人のためにジュエリーを作り、フランスだけでなく、オーストリアのハプスブルグ家の御用達にもなる。
ニトの後、息子のフランソワと、エティエンヌ・ルニョ・ニト(1779-1853)が、その後も息子のジュールとジャン・バティスト・フォサン(1786-1848)が引き継ぎ、フランス、オーストリア、イングランド、イタリア、スペインなどのヨーロッパの各時代の各国の宮廷ジュエラーとして活躍し、王侯貴族階級を顧客年、式典用の豪華なティアラを創作している。
1862年にジャン・プロスペル・モレルが経営権を取得し、1874年に娘婿でパートナーのジョゼフ・ショーメ(1854-1928)がメゾンを引き継ぎ、現在のメゾン名「ショーメ」となった。本店はパリのヴァンドーム広場12番地で、現在もメゾンは続いている。

◯ ファベルジェ Fabergé ジュエラー_宝飾商
カール・ファベルジェ(1846-1920)は、帝政ロシア時代のサンクトペテルブルクに生まれ、ドイツなどヨーロッパの工房にて修業後、父グスタフ(1814-1881)がサンクトペテルブルク1842年に創業したジュエリーメゾンで仕事を始め、1870年にメゾンを引き継ぎ、弟アガトンとともにメゾンを大きくしていった。1882年の全ロシア博覧会で金賞と聖スタニスラス賞を受賞し、その後の1900年のパリ万国博覧会ではグランプリを取り、ファベルジェはパリでもマイスターの称号を得て、名声はヨーロッパ中へ広がり、ロシア宮廷だけでなく他の王室からも注文を受け、ロンドン、パリへ拠点を広げる。カール・ファベルジェは、自身の持つアーティスティックな創作力を駆使しデザインや宝石、技法を決め作品の最終イメージを作り上げ、そのイメージの実現のために各部門の最高の職人技術を使い、比類ない創造性の高い作品を生み出した、歴史的に稀な才能あるアーティスティック・ディレクターである。ファベルジェのジュエリーやオブジェには、通常ファベルジェ工房のアトリエマイスターのマークが刻印されている。有名な作品には、ロシア皇帝ニコライ2世から皇后アレクサンドラへの贈り物として注文されたイースターエッグがあり、1884年から創作が始まった。また、宝石の選び方にはメゾン独自の基準があり、まずは高価であるかよりもいかに美しいか、アーティスティックであるかに重点を置き、ジュエリー全体のエレガントな印象を高めるために選ばれている。エマイユのジュエリーやオブジェにも非常に秀でており、中でもエマイユの色は「ファベルジェ好み」と言われるほどの仕上げで、現在では失われた技法や素材のため、作り出せない希少な色彩が特徴である。ロシア革命のため1918年ににメゾンの幕は閉じられ、ファベルジェはスイスへ亡命しそこで失意のまま逝去した。

◯ ファニエール・フレール(ファニエール兄弟)ジュエラー_宝飾商
フランソワ=オーギュスト(1819-1900)とジョゼフ=ルイ・ファニエール(1820-1897)の兄弟により1839年にパリへ創立し、ナポレオン3世皇帝時代の彫金作品を主とした著名な宝飾メゾンである。兄弟は、叔父の宝飾師の元で修行し、デッサンと彫刻に優れたフランソワ=オーギュストと、彫金を専門にしたジョゼフ=ルイは、瞬く間にパリの高位のジュエラーとなる。
主にルネサンス様式を創作し、モティーフでは天使、女神、神話のニンフ、シメール(キメラ)などの想像の動物を丸彫やレリーフで作り上げ、ジュエリーではエマイユ、真珠、カラーストーンなどで飾っている。
19世紀のフランスを代表するジュエラーでフランスのナポレオン3世皇帝の宮廷御用達のヴィエズ、フロマン=ムーリスからも仕事を依頼され作品を残している。1855年にはフランソワ=オーギュストが、1878年にはジョゼフ=ルイがレジオンドヌール勲章の各位を受けている。その後も多くの展覧会で受賞し、フランスを代表するジュエラーのひとつとして、1862年、1878年、1889年のロンドン博覧会では金銀彫刻の作品群へ金賞を受けている。その後ジョゼフ=ルイの息子ジェルマンがメゾンを継いだが、1911年にメゾンの扉は閉められた。

◯ ブシュロン Boucheron ジュエラー_宝飾商
19世紀中頃から続くフランスの宝飾商。フレデリック・ブシュロン(1830-1902)により1858年にパリの中心、パレ・ロワイヤルに創立した。1867年のパリ万国博覧会では、プリカジュール・エマイユ製の手鏡が金賞を受け、ティファニーのための作品も多く創り、アメリカで注目されることとなり、成功を収め、その後の1878年のパリ万国博覧会では3大グランプリを受賞し、ヨーロッパの王侯貴族や富豪の御用達となった。フレデリック・ブシュロンの特徴は、宝石の美しさと宝飾技術に加え、芸術家や感覚の優れた文芸界の人々をデザインチームへ投入し、先端的なデザイン性の高さを誇ったことと、そのアーティストたちの功績を内外に広めたことにある。古さを感じないモティーフや形は、今のジュエラーの憧憬となっている。1893年には今に続くパリ本店をヴァンドーム広場へ開店し、ロンドン、モスクワへもブティックを広めた。1960年代にはイランのシャーのロイヤルジュエリーコレクション展を立ち上げるなど、アートとジュエリー界を牽引するメゾンでもある。一族のアラン・ブシュロン(1948-)以降は、インターナショナルビジネスグループに引き継がれたが、パリのグランサンク(偉大なる5大ジュエラー)のひとつとして今に存続する。

◯ ジャネシッシュ(英:ジャネシッチ) Janesich ジュエラー_宝飾商
1835年にレオポルド・ジャネシッシュがトリエステに創業したジュエリー・メゾン。当初はオーストリア宮廷の王侯貴族御用達の、その後イタリア富裕層のジュエラーとして活躍した。息子ジョヴァンニの代には、パリのラ・ぺ通りに店を構えジョヴァンニの息子アルベルトと共にメゾンを隆盛に導いた。ダイヤモンドやルビー、サファイアなどの宝石や真珠の取引も行い、モンテカルロ、ドーヴィル、ヴィシー、ロンドン、ナポリへと拡大し、ヨーロッパジュエリー界の中心的な役割を果たした。1920年代には、最も注目を集めた素晴らしいアール・デコのジュエリーを発表する。第一次大戦後は本拠地のトリエステがオーストリア宮廷領からイタリア領となり、1925年にはサヴォワ王家御用達の、1933年にはアオステ公爵家の御用達ジュエラーとなっている。6世代に渡りジャネシッシュ家が続けたが、第二次大戦後は振るわず1968年にメゾンの扉は閉じられた。

◯ ラクロッシュ Lacloche ジュエラー_宝飾商アンティークジュエリー物語 n.65 知られざるジュエラー ラクロッシュ
1875年創業、ラクロッシュ4兄弟によって創立した宝飾メゾンである。
フランス、パリのヴァンドーム広場のラ・ペ通りに支店を構えた。1925年のパリ万国博覧会、1929年の装飾美術展へ出展し、ヨーロッパの王侯貴族や富豪の御用達であり王侯の持つ有名なダイヤモンドをはじめ、工房の持つ高度な技術からファベルジェからの専属の外注も受託していた。1920年にはファベルジェのロンドン支店を買収している。
ラクロッシュの宝飾工房では、ファベルジェの作品も創作しており、カルティエもならったと言われる精緻で繊細な最高技術を持ち、ジャポニズム、オリエンタリズムといったアール・デコ様式の作品をはじめ、主に1900~1930年代に素晴らしい作品を残し、グランサンクに並ぶ、又はより洗練されたジュエリーやオブジェを創作している。
第二次大戦後、創業者一族のジャック・ラクロッシュがメゾンの扉を閉めた。

◯ ヴァンクリフ&アーペル_Van Cleef & Arpels ジュエラー_宝飾商
1906年にアーペル兄弟と義理の兄弟のヴァンクリフによって創立したパリのジュエリー・メゾン。創業一族はもともとダイヤモンド商で、プラチナへ、ダイヤモンドをはじめとした宝石を使った繊細で優雅なデザインのジュエリーには定評がある。1925年パリ装飾美術博覧会では金賞を受賞し、王侯貴族や世界中の富豪を顧客に持つ。
特に1910年から1920年代のアール・デコ期前後には、パリのトップクラスのメゾンとして君臨した。
1920年代のアール・デコ様式にも素晴らしいジュエリーを残し、1930年の貴金属のバニティバッグ「ミノディエール」の命名もこのメゾンで、パーティバッグ、パウダーケース、腕時計など小物のデザインにも注力し、「ミステリーセッティング」の覇者となるなど、宝飾の歴史に残る作品を作り続けている。パリ1区のヴァンドーム広場22番地に本拠を置き、ロンドン、ニューヨークなど世界の都市へ支店を出した。1940年代以降もパリやニューヨークの社交界、世紀の結婚で有名なウィンザー公爵夫人といった顧客を持ち、現在もパリのトップジュエラーとして続いている、フランスの代表的な宝飾商の一つである。

◯ フレデリック・ヴェルノン F.Vernon_宝飾家_彫金・メダイユ作家
ヴェルノン(1858年-1912年)はフランスの彫金作家、メダイユ作家、宝飾家。パリの国立美術学校を卒業し、1887年にローマ賞グランプリを獲得後、ローマのメディシス宮で研鑽を積み、1896年にはフランス芸術家協会のメンバーとなり、1909年には芸術アカデミー会員となった
優雅な人物像を得意とし、フランスの代表的なメダイユを制作、またルネ・ラリックの宝飾パートナーとして有名で、ラリックのジュエリーの人の顔はほぼヴェルノンが創作している。パリ造幣局美術館やフランス国立文書館では作品と資料を所蔵している。

◯ ヴェヴェール VEVER ジュエラー_宝飾商
ピエール・ポール・ヴェヴェール(1794-1853)によって1821年にアルザス地方のメスに創立したジュエリーメゾンである。1848年からは長男のジャン・ジャック・エルネスト(1823-1884)が加わり、中世様式、ルネサンス様式などの歴史的な装飾からインスピレーションを受けたジュエリーを得意とし、フランスの偉大なジュエラーとして知られる。1871年にパリへ移り、貴金属およびジュエリー製造業雇用者組合の会長となり、息子のポールとアンリが経営と職人に加わる。1878年のパリ万国博覧会に出展し、ヨーロッパの王国貴族や富裕層の顧客に大変な評判を取っている。1889年には金賞を受け、時代の流れに沿ったアールヌーヴォー様式のジュエリーや、ベル・エポック期に流行するプラチナとダイヤモンドのジュエリーでも大きな評価を得ている。1921年にはポールの息子に2人が継ぐが、停滞し1982年にメゾンを閉じている。

◯ ヴィエズ  Wièse ジュエラー_宝飾商
ジュール・ヴィエズが1844年にパリに創立したジュエリーメゾンである。ドイツに生まれベルリンで修業後にパリへ、宝飾細工師モレルの元で腕を磨き、卓越した技術が注目され、1839年にパリのジュエリーメゾン「フロマン・ムーリス」へ入った後に工房長となる。自身の工房を設立後も、「フロマン・ムーリス」の仕事を受注し、パートナーとして共同制作品を国際博覧会、ジュエリーサロンなどへ出品した。1855年の万国博覧会では金賞によりヨーロッパで大きな注目を受け、メゾンの名声を確立する。息子のエミール、ルイがメゾンを続け、中世やルネサンス時代の装飾にインスピレーションを受けた彫金やエマイユを駆使した作品を作り、1860年代には、ナポレオン3世皇帝が買い取った古代遺跡コレクションがルーヴル宮殿へ入った後、ローマのジュエラー「カステラーニ」と同様に、古代様式のジュエリーにもデザインの幅を広げる。ナポレオン3世皇帝の古代遺跡コレクションは現在もルーヴル美術館に保存されている。

◯ オステルタグ Ostertag オスタータッグ_ジュエラー_宝飾商_メゾン
フランスの宝石商オステルタグ OSTERTAG はアーノルド・オステルタグ(英:オスタータッグ)によって1920年代に設立したジュエリーメゾン。パリの16番地ヴァンドーム広場に本拠があり、その後、夏のフランス社交界の地カンヌ、ニューヨークなどへ展開をし、アメリカの富豪たちにも好まれた。
1920年代と1930年代の間に、オステルタグの作品はカルティエ、ヴァンクリーフ&アーペル、ブシュロンなどの有名メゾンと匹敵する技術とデザインで、インドの彫刻をした宝石、ルビー、サファイア、エメラルドを組み合わせたトゥッティ・フルッティのスタイルや、アール・デコ デザインのジュエリーや美術品が知られている。高品質で装飾性の高い宝石時計を、オーデマピゲとともに、有名な時計職人ジョージ・ヴェルジェと共に創作し、1929年のパリのガリエラモード装飾美術館での宝飾展覧会にも出展した。オステルタグは、第二次世界大戦の始まりとともに、1939年にフランスを離れアメリカへ渡ったあと逝去しメゾンは閉じられた。

◯ スー・ド・ラ・クロワ伯爵(1840-1914) Enguerrand du (comte) Suau de la Croix
フランス人のエマイユ作家で宝飾師。1840年10月13日にスシーアンブリーの18世紀のプチ・ヴァル城館で貴族の家系に生まれ、1914年3月19日にパリのアヴェニュー・ボスケ81番地で逝去する。エマイユの高度な技術を持ち、カボション型半透明エマイユの新しい技法の革新者であった。まるで色石をカボションカットにレリーフしたようなエマイユを貴金属フレームへ施し、プリカジュールエマイユに仕上げる独自の技術で作られている。1898年から1913年にかけて創作活動を行い、パリのサロン・ド・アーティストなどの展覧会に出品している。現在、スー・ド・ラ・クロワ伯爵の作品やデッサンなどのアーカイヴコレクションを、フランス、パリのオルセー美術館が所蔵している。

◯ メゾン・ギュスタヴ・サンドス Gustave Sandoz ジュエラー_宝飾師_メゾン
ギュスタヴ=ロジェール・サンドス(1836-1891) は、フランスの宝飾家。3世代に渡る金銀細工及び宝飾、時計工房の家系で、1861年にメゾンを設立し、1894年にはパレロワイヤルへ、1914年から1924年にはロワイヤル通り10番地に存在した。万国博覧会の宝飾部門への出展を行い、パレロワイヤルの宝飾商会長を務める。息子のギュスタヴ=ロジェ(1867-1942)は1891年にメゾンを引き継ぎ、特にジュエリーと宝石のセッティングへ注力しメゾンを大きくし、ガラス芸術家エミール・ガレの共同制作者としても知られ、ガレのガラス作品へサンドスが貴金属のフレームや装飾をほどこした。時計とジュエリーへーアール・ヌーヴォー様式を取り入れた作品を発表しつつ、べル・エポック、アール・デコといった時代様式を取り入れたジュエリーをメゾンで創作し販売する。1920年にギュスタヴ=ロジェの息子ジェラール(1902-1995)がアーティスティックディレクターとしてデザイン部門へ参画し、広告デザインと共にアール・デコの銀器、ジュエリーのデザインを行い、著名なジュエリーデザイナーとして成功するが、その後映画制作へ興味を向け、1920年代後半にジュエリーメゾンはジョルジュ・ランファンが引き継いだ。メゾンは1938年頃まで続いたがその後閉じられた。

○ メレリオ・ディ・メレー Mellerio dits Meller_ジュエラー_宝飾商
フランスで最古のジュエラーである。1500年代初期にパリでの宝飾商としてはじまり、1600年代はじめには、フランスでの宝飾商の行商許可を得てのち、1635年にルイ13世王の宮廷御用達となった。
1800年代には家系のフランソワ・メレーがパリ1区のラ・ぺ・通り9番地へ本店を創立し、その後の土台を作り上げた。第一帝政時代にはナポレオン1世、ジョゼフィーヌ皇妃に、19世紀前期のフランス王政復古時代には、ルイ・フィリップ王のオルレアン王家一族の専属ジュエラーにもなり、フランスだけでなく、スペインのイザベラ女王にも愛され、マドリードへ出店をしている。
ナポレオン3世皇帝時代には、ユージェニー皇后をはじめ、皇帝一族や宮廷貴族、大ブルジョワ達の御用達となり隆盛を極めた。
19世記後期に盛んになった万国博覧会への出展では、ヨーロッパ各国の王室、富豪からの寵愛を受け、1878年にはレジオン・ドヌール勲章を受けている。美しく珍しい宝石と、豪奢でクラシックなジュエリーデザインを得意とし、1900年代にも同様に活発な活動を続け、ニューヨークをはじめとする様々な展覧会へ出展し、現在もパリの重要なジュエラーとして続いている。

○ シャルル・ワグナー Charles Wagner_宝飾家_彫金師
ワグナー(1799-1841)はドイツに生まれ、フランスで活躍した宝飾師、金銀細工師。中世やルネサンス様式の細密で凝った、彫金細工やニエロなどのエマイユ作品を得意とした。ジュエリー だけでなく飾るためのオブジェでも有名で、1834年と1839年の万国博覧会に出品し、オルレアン公爵、マリー公女の御用達ともなっている。ルーヴル美術館、ドイツのドレスデンのグリーンヴォルト美術館などに作品が保存されている。

○ アルトグ・パリ HARTOG PARIS_ジュエラー_宝飾商
19世紀後期から1920年代頃のパリの宝飾商。
ジュエリーと、貴金属や宝石を使ったオブジェ(バニティケース、コインパース等)を創作し販売していた。1912年に北大西洋で沈没した豪華客船タイタニック号の一等船客のアメリカ夫人のジュエリー目録にもアルトグ・パリのダイヤモンドやサファイアのリングやネックレス、エマイユのカフスボタンなどが、ティファニーのジュエリーとともに50数点のリストに載っているほどの、著名なパリのジュエラーであった。

ブシュロン モーヴッサン ラリック アーティスト・ジュエラー シュランベルジェ ルイジ・イスラー ヴェルドゥーラ(ヴェルデュラ) カルロ・ジュリアーノ リュシアン・ガイヤール ガラード メリーロ ジョージ・ジェンセン エンリコ・セラフィニ ティファニー ビエンネ ボワヴァン ジョルジュ・フーケ フォントネイ(フォントネ) フロマン=ムーリス ペレッティ

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